AWAY紀行

2008/04/25

AWAYの旅 豆知識@京都・白峯神宮

さて、明日は京都戦です。
春の連休をからめ、西京極に遠征されるサポーターの方々も多いと思います。
そう、『サッカー』と『京都』と言えば・・・サッカーをはじめ球技の神様として知られている白峯神宮が有名です。
このたびの遠征でも、多くの皆様が白峯神宮へ参詣なされるのではないでしょうか。

すでにご存じの方も多いとは思いますが、遠征に先立ち、僭越ながら私が知り得た範囲での白峯神宮についての豆知識を、少しご紹介いたしましょう。

白峯神宮の御祭神は、崇徳天皇(上皇)と淳仁天皇ですが、この両柱の祭神様が『球技の神様』ではありません。
白峯神宮が『球技の神様』として祀られている由縁は、境内がもともと蹴鞠と和歌の宗家であった飛鳥井氏の屋敷だったということと、その氏神であった“精大明神”が、現在も境内の中にある『地主社』に祀られているためです。

では、なぜ、崇徳天皇と淳仁天皇が祀られているのでしょう。
詳細な解説は、専門かつ詳細に取り扱われているサイトが多々ありますので、そちらをググってご参照いただくこととして、弊サイトでは、井沢元彦『逆説の日本史2 古代怨霊編』(小学館文庫)を参考に、ごく簡単にまとめてみました。

白峯神宮の由来は意外に浅く、明治天皇が明治の御代になるのとほぼ同時に創建されたものです。
ここでまた疑問が・・・なぜ崇徳天皇と淳仁天皇を、何百年も後世の明治天皇が祀ることになったのでしょう。

まずは、崇徳天皇のお話を(詳細は、Wikipedia『崇徳天皇』の項をご参照ください)
崇徳天皇は、明治以前の日本で最も恐れられた『大魔王』だったのです。それは中世~近世の日本人の常識だったとまで言われていたほどだそうです。崇徳天皇は、その不幸な出自から、父である鳥羽天皇に疎まれ、のちの勢力争いの渦に巻き込まれ、ついに政権奪回のクーデーター・保元の乱(1156年)を起こし、失敗。讃岐国(香川県)に流されました。
流罪地で反省した崇徳天皇は写経の日々を送り、その意を伝えようとできあがった写経文を都の寺に納めたいと朝廷に申し入れたところ、朝廷側は「呪詛が込められているのでは」と疑い拒否したのです。
これに大変激怒した崇徳天皇は、「かの科(とが)を救わんとおもう莫大の行業を、しかしながら三悪逆(地獄道・餓鬼道・畜生道)に投げ込み、その力をもって、日本国の大魔縁となり、皇をもって民となし、民を皇となさん」と、自分の舌先を食いちぎり、その血で写経文の奥に呪詛の誓文を書き付け、海底に沈めた、と伝えられています。怒りのあまり相貌は夜叉とも天狗とも思えるような姿となり、讃岐国にて無念の死を遂げたそうです。
「皇をもって民となし、民を皇となさん」の思いはのちに、いわゆる言霊(ことだま)となり、その後の日本の歴史に不思議に符号するものとなります。武家である平家の台頭、源氏の鎌倉幕府開闢による武家の世の到来、幕府に反抗した後鳥羽・順徳上皇らの配流(承久の乱)、後醍醐天皇の度重なる政権奪還の失敗(元弘の変、建武の新政、南北朝など)・・・と、明治に至るまで、天皇家は家臣であるはずの武家の勢力下に甘んじることとなりました。

怨念の大魔王として恐れられた崇徳天皇ですが、讃岐国の陵墓(香川県坂出市)でその霊を慰めたところ大変な御加護を授かったそうで、室町時代に四国守護の任に就いた細川氏は、手厚くその菩提を弔ったところ四国平定に成功、以降細川氏代々の守護神として崇められたそうです。

明治天皇の父・孝明天皇は、当時の国情を鑑み、早くから崇徳天皇を畏怖し、その霊を慰め京に迎えることを常々考えていたそうなのですが、天然痘にて急死。古来疫病は怨霊の“たたり”として恐れられていたため、明治天皇は父の死を崇徳天皇の“たたり”ととらえたようです。
さらに、その当時は戊辰戦争の最中、東国は戦乱状態にあり、崇徳天皇の霊力を頼って勝利したいとの願いも強かったと考えられています。

崇徳天皇を畏れにおそれた明治天皇は、江戸を東京と改めた直後、国家の重要事態の真っ最中に、勅使を讃岐国の崇徳天皇陵に派遣したのです。勅使は、陵墓の前で、明治天皇の言葉(宣命)を読み上げたそうです。宣命の主旨は「憂憤のうちに讃岐・白峰の地で亡くなられた崇徳天皇のお悲しみはいかばかりかとお察しいたします。陛下には京にお帰りいただき、霊をお慰めすべく都の近くに清らかな新宮を建立しましたので、長年のお怒りをお鎮めいただき、どうぞ京にお帰りください。そして官軍に刃向かう者を鎮定し、天下安穏になりますようお助けください」という内容だったそうです。
このように重々に崇徳天皇の御機嫌をうかがい、その“翌日”に即位の礼を執り行い、12日後に『明治』に改元するほどの念の入れように、明治天皇の慎重さと畏敬の念が表れています。その御加護からでしょうか、途中危急存亡の国難に見舞われましたこの国でしたが、天皇家の系譜は今も受け継がれています。

つぎに淳仁天皇のお話(Wikipedia『淳仁天皇』の項をご参照ください)
崇徳天皇からさらに遡ること数百年の天平の頃、淳仁天皇は“後ろ盾”として結びつきの強かった藤原仲麻呂と孝謙上皇(女帝、のちに称徳天皇として再び天皇に)の対立の渦中に巻き込まれました。『恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱(764年)』のあと、再び復権した称徳天皇に廃帝(はいたい)され、失意のうちに配流地の淡路島にて崩御。明治になるまでの長い間、歴代天皇のひとりとして認められず、亡き後にも千年以上の不遇の時代を過ごした天皇です。
崇徳天皇と同様、無念の生涯を送った淳仁天皇を偲び、そして畏れた明治天皇は、明治6年(1873年)、淳仁天皇を白峯神宮に合祀されました。

白峯神宮の縁起にも、「当神宮は、かような歴史上御非運に会われた御二方の天皇の御神霊をお祀り申し上げております。」との記述があります。縁起には上記のような生々しい表現は努めて回避してありますが、事情としては「そういうこと」のようです。

長々と書き綴りました・・・
まとめです。
『蹴鞠の神様』として、白峯神宮をご参詣される皆様におかれましては、是非とも浦和レッズの必勝祈願をお願い申し上げます。
あわせて、崇徳・淳仁両天皇を偲んでご参詣くださり、御霊を慰め、浦和レッズの現状を鑑み、かかる不運(怪我、事故、試合内容の悪さもろもろ・・・)の事態を何卒お救いくださるよう、ご祈願のほどお願い申し上げたく、、、と思った次第です。

以上、ダンナからの情報提供を受けお送りした、今回のエントリでございました(笑)。

 

京都に向かわれる皆様、道中くれぐれもお気を付けて。
「勝ち点3」を手土産に、浦和に戻って参りましょう。
それでは、西京極で。
長文お読みいただき、誠にありがとうございました。

 

余談その1:
祇園の街の真ん中、花見小路甲部歌舞錬場の裏手に、遺髪を祀った『崇徳天皇御廟』があるそうです。近くにお越しの方は、お立ち寄りになってみてはいかがでしょう。

余談その2:
今回多くの内容を引用させていただいた、井沢元彦『逆説の日本史』によると、聖徳太子以降、“徳”の名の付いた天皇は不運な生涯を送った天皇が多い、との説があります。
つまり、現代の私たちが知る天皇の名は、いわゆる諡(おくりな。戒名)であり、鎮魂のために“徳”の字を贈られたケースが多い、と説いています。崇徳天皇、壇ノ浦で落命した安徳天皇、承久の乱(1221年)で敗れ流罪地の佐渡で崩御した順徳天皇・・・その順徳天皇以降はそのような傾向はなくなったとのことですが、その詳細についてご興味のある方は、著書をご覧くだされば、と思います。

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2008.5.1追記:
ということで、行って参りました。

霊験あらたかな、ありがたいものを発見。

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さらに、お約束ですが、、、(笑)

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2007/10/12

【AWAY紀行】まほろばを訪ねて(3)東大寺二月堂編

真夏の紀行文を、こんな秋まで引っぱってしまいました(詫;

かなり間が空いてしまいましたが、

 「大和は国のまほろば」

平城の都・奈良のトボトボ歩き紀行の第3話です。
 #(1)三条通~興福寺編はこちら、(2)東大寺大仏殿編はこちらをどうぞ。

【 2007年8月16日 11:50ごろ 大鐘(鐘楼)付近】

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前回の“東大寺大仏殿編”につづき、今回は、東大寺境内の東方、若草山麓を訪ねます。手向山八幡宮の参道鳥居の手前から左手の坂道を登ります。

 

 

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石段の向こうに鐘楼が見えてきました。鐘楼周辺の広場は、大仏殿の人混みと対照的に驚くほど静寂。このような静謐をかような場所にこそ求めたいものです。しばし静けさに心を委ねたのち、近くの茶店で中食。きつねうどんを注文。観光地の中心地ゆえ少々高価でしたが、期待どおりの素朴な味で満足。
茶店を出て、さらに炎天下の緩い石段を登っていきます。 

【 同日 12:20ごろ 上院(若草山麓)

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石段を登ると、空間が開けました。石段正面から最初に見えてきたのが法華堂(三月堂)、奥に二月堂、写真右にフレームアウトしていますが、三昧堂(四月堂)があります。

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左写真が法華堂(三月堂)、右写真が三昧堂(四月堂)。
このあたりは東大寺の起源とされる金鐘寺があった場所とされています。金鐘寺には、8世紀半ばに羂索(けんじゃく)堂、千手堂が存在したことを示す記録があり、このうち羂索堂が現在の法華堂を指すと見られています。
法華堂(本尊は不空羂索観音)は、毎年陰暦三月に法華会が行われることから、三月堂とも呼ばれています。天平仏の宝庫として知られ、743年までには完成していたと思われています。参道から向かって左(北)側の仏像が安置されている棟が天平時代の建築で、右(南)側の礼堂部分は鎌倉時代の1199年頃に老朽化のため再建したものとのこと。
三昧堂(本尊は千手観音像)は、毎年陰暦四月に法華三昧が行われることから、四月堂とも呼ばれています。木材部分には朱塗りが施されています。撮影時に、何ぞ願い事でもあったのか、ちょうど鹿がお参りに来ておりました。
時間がいよいよ迫ってきたので、さっと見回して二月堂へと向かいます。

【 同日 12:30ごろ 二月堂】

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070816nigatudo4陰暦二月に“お水取り”で有名な『修二会(しゅにえ)』が行われることから、二月堂と呼ばれています。中世までの戦火からは辛うじて免れてきたものの、江戸時代(1667年)の“お水取り”の最中に失火してしまい、現存するのはその2年後に再建されたものだそうです。
一般に二月堂の修二会は“お水取り”“お松明”が代名詞となっていますが、他の修二会との区別のために『東大寺修二会』(Wikipedia)と称されることもあります(他に薬師寺修二会[花会式]、新薬師寺修二会[おたいまつ]、法隆寺修二会、長谷寺修二会[だだおし]などあり)。

東大寺の『修二会』の法要は、正しくは『十一面悔過(じゅういちめんけか)』と呼ばれるそうです。本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、何人も見ることを許されない絶対秘仏とのこと。「天下泰平」「五穀豊穣」「万民快楽(ばんみんけらく)」などを願い、天下万民になり代わり懺悔(さんげ)の行を勤めるものです。前行(2月20日~28日)、本行(3月1日~14日)をあわせてほぼ1ヶ月、準備期間を加えれば3ヶ月にも及ぶ大きな法要となります(参考:東大寺HP
大仏殿では国家権力や国体維持などの独特の政治色を感じさせるものがありましたが、ここはやはり華厳宗の大本山らしい国家安寧を願う宗教色と、国家守護の寺・東大寺を感じさせてくれます。

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春寒の弥生三月花まだき
君の肩にはらり 良弁椿
ここは東大寺 足早にゆく人垣の
誰となく独白く南無観世音 折から名残り雪

二月堂と聞いて、またも思い起こされるのは、うぃあーソングライター・さだまさし大先生の名曲『修二会』。まさにここ二月堂と修二会をモチーフに男女の愛の脆さと儚(はかな)さを描いた、『まほろば』と双璧の作品です。
真夏で甚だ季節外れなのですが(笑)、この唄の世界に思いを馳せながら、静寂に佇む二月堂を訪ねることに。

070816nigatudo7君の手は既に 凍り尽くして居り
その心 ゆらり 他所にあり
もはや二月堂 天も焦げよと松明の
炎見上げつつ何故君は泣く
雪のように火の粉が降る

走る 火影 揺れる君の横顔
燃える 燃える 燃える おたいまつ燃える

070816nigatudo8 二月堂の修二会の象徴的な行である“お松明”。長さ8m、重さ80kgもの燃えさかる松明をこの舞台で振り回す勇壮な光景は、多くの日本人に知られています。本行の期間中は連日行われていますが、特に3月12日は最多の松明が使用されることと一般参詣者への香水授与(お水取り)が行われるため、大変な混雑となる様子が毎年報道されているのはご存じのとおり。752年から一度も中断されることなく連綿と続けられ、今年(2007年)が1256回目の法要となりました。
その松明を振り回す舞台からの眺望。天平の奈良へと思いが飛んでいきそうな眺めです。

070816nigatudo6過去帳に 青衣の女人の名を聴けば
僕の背に 君の香りゆらめく
ここは女人結界 君は格子の外に居り
息を殺して聴く南無観世音
こもりの僧の沓の音

ふり向けば 既に君の姿はなく
胸を打つ痛み 五体投
もはやお水取 やがて始まる達陀の
水よ清めよ 火よ焼き払えよ この罪この業(カルマ)

走る 火影 揺れる あふれる涙
燃える 燃える 燃える 松明 燃える

歌詞の中にある、ずっと以前から気になっていた“青衣(しょうえ)の女人”。
このたびの紀行文を書くに当たって、初めてこの謎を知ることに。

修二会の行法のなかで“大導師作法”というものがあり、≪神名帳奉読≫と≪過去帳奉読≫が行われます。

初夜に行われる≪神名帳奉読≫では、日本全国60余州に鎮坐する490ケ所の明神と14000余ケ所の神々の名が書かれている神名帳を読誦し、「修二会の行法を照覧あれ」と神々を呼び寄せお願いをします。
3月5日・12日に行われる≪過去帳奉読≫では、
聖武天皇からの歴代天皇、東大寺縁者、戦禍・天災に斃れた万国民の霊、現職の総理大臣以下の閣僚、最高裁の長官などの名を読み上げ、その働きが天下太平、万民豊楽をもたらすよう祈願します。
この日本最長の過去帳に連ねられた名のうち、鎌倉時代の源頼朝から18番目に当たるのが“青衣の女人”。元来無かった存在なのですが、鎌倉時代に集慶という僧が過去帳を読み上げていたところ、青い衣を着た女の幽霊が現れ、「何故我が名を読み落としたるとや」と恨めしげに言ったので、女の着衣の色からとっさに「青衣女人(しょうえのにょにん)」と読み上げたところ、微笑みながら満足げに消えていった・・・というちょっと怪談めいた話ですが、実際、東大寺の過去帳に記載されています。現在でも“青衣の女人”を読み上げる時は、声を潜めるのが慣習となっているそうです。

この話をはじめ修二会に関して、様々なサイトにも掲載されていましたが、下記サイトに詳しくありますので、参考にしていただくとわかりやすいかと思います。

 ・東大阪河内ライオンズクラブHP
 ・『奈良観光』HP:東大寺二月堂修二会(その1)
 ・     〃   :        〃       (その2)
   ※(その2)に過去帳(「青衣女人」の記載あり)の画像があります。

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二月堂回廊の脇に、御茶所があり、いわゆる「セルフ形式」でお茶が振る舞われています。冷たいお茶には麦茶もあり、酷暑の真昼に何ともありがたい限り。水が旨いためでしょう、甘露美味。しかしここは“行”を重んずる場所、使った茶碗は自分で洗って仕舞う作法となっています。こんな行儀作法は昔では当たり前のことでした・・・忘れかけている心を思い出させていただきました。

070816nigatudo10 快く冷たい麦茶を頂戴して一服ののち、階段を下り、二月堂をあとに。時間はもうすぐ13時になろうとしていました。13時半までにはJR奈良駅に戻らなければならなかったのと、あまりの暑さ(熊谷で観測史上最高気温が記録された、あの暑い日)のため、ダンナがだいぶ溶けてしまって(笑)動けなくなったので、奈良国立博物館(今回スルー)前からタクシーを拾い、急ぎ奈良駅へ。
駅付近で土産を買おうと期待していたのですが、なんと構内に土産店が無い!!!
駅前にあった奈良漬の店で、かろうじて瓜漬けを土産として購入(後日談:もちろん漬物も美味でしたが、残りの酒粕で鶏肉や牛肉を漬けてみたら2度も3度も美味!ぜひお試しあれ)。

【同日 奈良線 みやこ路快速 13:39発】

070816jrnara2 時間となり、京都行きの列車に乗車。
コンビニで仕入れた冷凍ボトルと冷房の効いた車内で息を吹き返す、炎天下徒歩夫婦。(@▽@;)
わずか3時間の奈良滞在で、時間の限り歩きましたが、時空を超えてさまざまな思いを巡らせることのできた、充実の旅となりました。
1300年の歴史が息づく街・・・わずかな時間でも日本仏教の黎明に触れることのできた驚きと喜びで、少し心豊かになれたような、そんな真夏の古都巡りでした。

(おわり)

070816kfc_2おまけ:
奈良駅すぐ近くのKFCをタクシーで通りかかった時の1ショット。

おっちゃんも、暑かったんやねぇ。。。(^ー^;

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2007/10/05

【AWAY紀行】ぶらりソウル(2)景福宮&大陸の人々

実は、前回ぶらり旅の前日に、こちらを訪れていました。
時間が前後してしまいましたが、まあそこはご愛敬ということで(^^ゞ

今回の遠征のオプショナルツアーで、仁川空港からツアーバスで護送される『うぃあー御一行様』。
このバスに乗り、ガイドさんの説明を聞くまでは、どこに連れて行かれるのかもわからない、タモリ倶楽部的“ミステリー・ツアー”状態でしたが(笑)、行き先は至ってまとも、朝鮮王朝を代表する王宮・景福宮と国立民族博物館を見学し、その後は、ちょっと怪しい魅力の南大門市場を観光しました。

【2007年9月25日 15時半ごろ 景福宮(キョンボックン) 訪】

070925seoulmap1 韓流時代劇ファンの皆さま、お待たせいたしました。(゚∀゚)凸
ソウルと言えば「ここ」、ですね。
朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンギェ)によって1395年に造営された最初の王宮です。
北方背後に北岳山、正門の光化門(復元中)から南に六曹通(現在の世宗路)が伸びており、京都や奈良と同様、王宮の北に山を背負い、地形が開けた南に大通りを配して都市計画の中心に据えています。風水思想に基づく都市建設手法は東アジアの共通項であるのだなあと、改めて感じさせてくれます。(※地図クリックで拡大します)

070925gyeonbokgungmap 創建当初は12万6千坪という広大な敷地に200棟を超える殿閣があり栄華を極めたそうです。しかしそれらも、われら日本人には少々耳の痛い話ですが、『文禄・慶長の役(1592-1598年)により焼失。その後、朝鮮時代末期の高宗時代(1868年)に再建され、330棟もの殿閣が建てられたそうですが、日本統治時代の総督府の建設時に、勤政殿などごく一部の建物だけを残して、景福宮の数多くの建築物が取り壊されたそうです。
戦後久しい1990年から本格的な復元事業が推進され、総督府の建物を撤去し、徐々に景福宮の本来の姿を取り戻しつつあるそうです。(※図クリックで拡大します)

<光化門-興礼門-勤政門-勤政殿-思政殿-康寧殿-交泰殿>

などの門・殿閣が一直線に配置されていて、宮殿の軸空間を形成しています。

070925gyeonbokgung1■興礼門(フンレムン)

光化門が復元中のため、現在、景福宮の最南端にあるのがこの門。
秋夕(韓国の旧盆)の真っ最中のため、市内は休業店舗が多いのですが、ここのような観光地は大盛況。休みを利用して訪れた国内客のみならず外国人の姿も相当多く見かけました。
ここをくぐって、勤政門-勤政殿へ向かいます。

■勤政門-勤政殿(クンジョンムン-クンジョンジョン)

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興礼門をくぐると、勤政門があり、その間が広場になっています。
お盆のお祭りで、色鮮やかな伝統的衣装を身にまとった子どもたちが踊っていました。多くの見物客に囲まれて賑わっています。晴れた秋空に、衣装の色もよく映えていました。

この勤政門の色遣い・・・最近どこかで見たような・・・と思い出していたら、腑に落ちました。日高市・高麗神社となりの聖天院にあった朝鮮半島出身者墓園にあった四阿(あずまや)です。
この地の文化を、身近に感じた瞬間でした。

勤政門をくぐり、勤政殿へ向かいます。

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勤政殿。国家的行事を執り行っていたところです。その前広場は『朝廷』と呼ばれていたとか。そこかしこに小さな石塔が置かれているのが目に付きます(お墓じゃありません/笑)。
ここで。
私は、韓流ドラマにほどんど興味はないのですが、唯一、全編観たものがあります。
それは、

 『宮廷女官 チャングムの誓い』

でした。
主人公である宮廷女官・チャングムの波瀾万丈の人生と、彼女に関わる宮廷内での人間ドラマを描いた作品でしたが、重要なシーンのひとつに、チャングムに“官位”が与えられる場面があります。これらの石塔には官位名が刻まれていて、身分階級制度の厳しい朝鮮王朝時代、臣下が集合して王に拝謁する際に、自分の官位が示された石塔の位置に控えます。当然ながら、殿閣に近い位置が最も位が高く、低くなるにつれて後ろへ配されます。
ドラマは、チャングムが医女の身分でありながらも王の主治医となり、ほぼ最前に列する栄誉を与えられたところで、クライマックスを迎えます。
やはりここでそのシーンのロケが行われたと、ガイドさんから解説がありました。

070925gyeonbokgung6070925gyeonbokgung5勤政殿の天井には、巨大な龍をメインとした彫刻が施されていました。この国特有の鮮やかな極彩色が随所に用いられ、日本の伝統建築とは異なる朝鮮古来の文化を表現しています。

また、内部には王の玉座がありました(右写真)。

次に、思政殿へと向かいます。

■思政殿(サジョンジョン)中庭

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思政殿は、王の執務空間といったところ。ここを取り囲む回廊のような建物は、かつての書庫だったそうで、公文書が保管されていました。幾たびかの戦禍により、それらの貴重な文書は、日本をはじめとするアジア諸国に限らず、欧米等の国外にも持ち去られたそうで、韓国国内で現存するものは僅少とか。そのため、歴史的な研究を国内で行うのは現在でも困難な状況だということです。またも耳の痛いお話ではあります。。。
お盆のためでしょうか、美しいチマチョゴリを着た女性の姿をよく見かけました。

■慶会楼・交泰殿(キョンフェル・キョテジョン)

070925gyeonbokgung910_2

 

 

 

 

慶会楼(左写真)は王が主宰する宴会を行う高床建物で、現代風に言えば“ピロティ”構造となっています。交泰殿(右写真)は宮殿の中心にあり、中宮殿とも呼ばれていました。王妃の寝殿です。

070925gyeonbokgung11おそらく魔除けか守護神かのどちらかと思われますが、屋根瓦には、右写真のような動物様のものを模した造形物が随所に装飾されています。

時間もなくなってきたので、後宮エリアにある他の施設を駆け足で周り、国立民族博物館へと向かいます。

 

 

【同日 16時すぎ 国立民族博物館

070925folkmuseum1時間も相当おしてきたので、急いで館内を巡ります。
内部展示は、主に『韓民族生活史』『生業・工芸・衣食住』『韓国人の一生』という3部構成になっています。
館内は博物館ですので、撮影禁止となっています。

が。

昔の韓民族文化を学ぶというより、ここでは、思いがけなく現代韓国人の気質に触れることになりました(笑)。
日本人が大人しいのか遵法精神があるのかどうか、その議論は置いといて・・・。

  • 館内で、写真はバシバシ撮りまくっています。
  • 屋外での感覚と同様に、館内では携帯電話で話します。
  • 子どもたちが、元気よく走り回っては、見学順路を逆走しています。

私は、カルチャー・ショックを受けてしまいました。  ((((;゚Д゚)))
確かに、王宮を見学している時にも感じましたが、写真撮影している人の前をためらい無く横切りますし、並びの見学列にも積極的に割り込んできました。地下鉄に乗車中でも携帯電話は普通に使っていると、他のうぃあーさんからも聞きました。
ここは儒教の国だということから、かなりマナーに対しては厳しい見識を持っているかと思っていたところ、それは私の「先入観」だと気付きました。
日本人が考えるマナーと、この国の人々のマナーの尺度が違うのでしょう、きっと。
私の勝手な感想ですが、「まず、自分ありき」というか、「自己の力」が行動規範になっているような印象を受けました。どこか積極性の高さを感じます。
確かに、サッカーを観ていても、

 日本人FW:チャンスを譲り合い、結局好機を逃す(例:○ナギ)
 韓国人FW:まずは自分で機をうかがう

070925folkmuseum2なんてシーンを何回か見たことありますし(爆)。

面食らっているうちに、だんだんと陽が傾いてきました。
急ぎ博物館を出てバスに向かっていたところ、これも高麗神社で見かけた『将軍標(しょうぐんひょう:チャンスン)』がありました。ってか、こっちが本場ですね(^^;

日没になる前に、ソウルの古い下町街と呼ばれる『南大門市場』にバスで向かいます。

【同日 17:30ごろ 南大門市場

070925namdaemun 大通りの交差点、今ではロータリーとなってそびえ立っているのが有名な崇礼門(スンネムン:かつて南大門と言われていましたが、改称したそうです)。国宝第1号指定を受けているのですが、立地状態に驚いてしまいます。都の城門の一つとして建てられた、現存する朝鮮王朝の代表的な建物で、はじめは城壁がこの門につながっていたそうなのですが、1908年に門を残して撤去されたそうです。

この交差点すぐの脇道から、市場に入ります。

070925namdaemunmarket12

 

 

 

 

ここをひとことで表現するならば、“ソウルのアメ横”でしょうか。
否、アメ横に比べれば、何とも怪しいパワーとエネルギーが炸裂しています(笑)。
朝鮮王朝時代から約600年の歴史を誇る一方で、1日に数十万人が訪れて、日々人々の熱気で賑わっているそうです。この日はたまたまお盆の時期で客足こそ普段より少ないようでしたが、「何でもアリ」と言わんばかりに立ち並ぶ店の構えと、この混沌とした雰囲気が、まさに大陸的。道を歩けば、ルイ・ヴィトンのバッグが山積みされたワゴン(爆爆)や、怪しい日本語で“客引き”が積極的に攻めてきます。
ご覧ください、、、右上写真の店の、堂々たる「パチぶり」を (爆×10)。

070925namdaemunmarket3そして、やはり人目に付くところには、右写真のようなアピールが。
 #上野のアメ横に『北方領土返還』の段幕があるようなもんですね・・・(^^;

何度か客引きに連行されそうになりつつも、「今日は、市場は見るだけヨ!」とのガイドさんの先導(笑)で、駆け抜けるように、無事市場観光を終えました。
いやはや、、、たった15分程度の見学でしたが、充分に異国情緒を味わえました。

訪れた土地の『お国柄』というものを感じることは、何とも楽しいものです。これぞ旅の醍醐味でしょうか。
それほど遠くない隣の国。海を隔てて、此方は島国、彼方は大陸。
欧米ではみな似た者同士に捉えられがちな極東の国々ですが、これほど文化の多様性がちりばめられているものだと、大変勉強になりました。

次は、どの国を訪れてみましょうか。
叶うことなら、レッズと共に。

(おわり)

 

070926bike おまけ:
次の日、清渓川を散歩していた時に、私の発想を遙かに超えた、こんなものを見つけてしまいました。。。
もちろん、ナンバープレートのようなものは見当たりません。
大都会・ソウルの街のど真ん中にて。

すごい、すごすぎる  ((((;゚Д゚)))
 #ホンダVTっぽいんですが・・・

そう言えば、南大門市場には、寒い冬場の露天仕事で使う、座面を電気で温めてくれる椅子がありました。椅子に電気コードと温度調節ツマミが付いていて・・・
それって『電気椅子』???(恐;;

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2007/10/02

【AWAY紀行】ぶらりソウル(1)清渓川~韓屋の街並み

日本国内では飽きたらず、海外でも「取り憑かれたようにひたすら歩く」放浪夫婦の、韓国遠征編です。
全北現代戦の日の午前中はフリーだったので、ホテル界隈をぶらりと歩いてみました。
半ば現場視察と化した(笑)清渓川での散策にはじまり、ちらりと宗廟の入口だけ見たあとは、骨董品や工芸品などの店が建ち並ぶアンティーク街・仁寺洞を通り、韓国の伝統的家屋の街並みが残る北村韓屋村(プッチョン・ハノク・マウル)まで足を延ばした、約2時間半のソウルぶらり旅です。
文字も読めず、言葉もわからず・・・“勘”だけが頼りの散歩のはじまりはじまり(爆)

【2007年9月26日 8:30 清渓川(チョンゲチョン)】

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070926cheonggyecheon0大規模な都市河川復元整備の例として、世界的にその名が広まった清渓川(チョンゲチョン)。かつては、この川の上部には“蓋”がありました。
戦後、清渓川周辺は難民が押し寄せスラム街と化していたため、韓国政府は復興と開発のために、1958~1978年の20年間をかけて、この川を道路で“蓋”をし、さらにその上に『清渓高架道路』を整備しました(右写真:清渓川文化館発行『清渓川復元』より引用)。その後、1980年代は、清渓川一帯はソウルの中心商圏として栄えました。
しかし、川を覆った道路と高架道路を走る車により発生した排気ガスなどが原因で、重金属や有害ガスによる河川の汚染を進行させたうえに、道路構造物を腐食させ、補修では耐えられないほどの老朽化を招きました。整備されて30~40年程度しか共用されなかった道路と高架道路はやむなく取り壊されることに。これをきっかけに、これまで顧みられなかった市民生活中心のインフラ整備に関心が集まり、ソウルの都市再生と歴史復古のシンボルとして、清渓川の復元工事が実施されました。2003年7月から約2年3ヶ月をかけて全長5.8㎞にわたる工事が行われ、2005年10月に竣工しました。

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左は上流端。噴水と滝が整備されています。右写真は下流の中間点付近の様子ですが、下流に向かうほど植生の着生率が増し、自然再生が進んでいました。また随所に置き石や沈下橋などの渡河構造物が整備され、市民が水辺に親しめるような工夫がなされています。
この復元整備により、清渓川はソウル市民の憩いの場として利用されるようになり、都市環境が大きく変わったと、前日ツアーガイドさんも語っていました。
1時間ほどの現場調査のようなハードな散歩を終え(笑)、宗廟方面へ向かいます。

【同日 9:30ごろ 宗廟(チョンミョ)】

070926jongmyo 残念ながら、時計を見るとそれほど時間がなかったため、門だけの撮影に。(つ;д`)
朝鮮王朝時代の歴代の王と王妃の位牌が奉られています。朝鮮王朝の最初の王宮である景福宮(キョンボックン)と同時期に建造されたとのこと。ユネスコの世界文化遺産に登録されています。見学していないため詳細はわかりませんので(笑)、興味のある方は、こちらをご覧ください。

【同日 9:50ごろ 仁寺洞(インサドン)

先を急ぎます。
前日、ガイドさんから聞いた、「景福宮近くの街並み保存地区(=北村韓屋村(プッチョン・ハノク・マウル))」に行くために、偶然ここを通りかかりました。
途中、親切なおじさまが、身振り手振りを加えて道を教えてくださっているようでしたが、現地語でまくしたてられてしまっては、さすがのダンナもフリーズ状態 ((((;゚Д゚)))。軽く「カニサムニダ」と私から御礼だけはしておいたので、国際問題への発展は避けられた模様(笑)。

070926insadong1メイン通りは、骨董店、工芸品店、茶道具屋などが建ち並び、ちょっとおしゃれでアンティークな雰囲気ですが、横町を見遣ると、なかなかの風情(右写真)。何のお店かは不明ですが、店構えからして飲食店街の模様。ソウル市民の生活風景が垣間見えます。日本と異なる雰囲気に、実はこんなところで異国情緒がたっぷり楽しめます。
なお、このエリアで販売している古美術品の中には、国外持ち出し禁止の品もあるのでご注意ください、とガイドブックに記載がありましたのでご参考までに。。。

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これは、、、“Cafe”の文字から、多分そうだと思いますが、ソウルの『マンガ喫茶』かと。
鉄腕アトム、マジンガーZ、仮面ライダー、ガンダム・・・う~ん(。。;)

 

 

【同日 10:10ごろ 北村韓屋村(プッチョン・ハノク・マウル)

070926poongmunghs 仁寺洞から大きな交差点を渡って、プンムン女子高等学校の脇道から、韓国の伝統的家屋(=韓屋(ハノク))群が保存されている北村韓屋村(プッチョン・ハノク・マウル)エリアに入ります。東は昌徳宮から西は景福宮までの、鐘路区安国洞、嘉會洞、苑西洞、齋洞、桂洞といった町が『北村(プッチョン)』と呼ばれ、約860もの甍が連なる韓国の伝統的な居住地域です。ソウルが都となって600年もの歴史とともに生きてきた、昔ながらの家屋が多く保存されています。

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女学校の裏あたり。お寺の隣は教会あり、細い横町は低い屋根、煉瓦貼りの住居がひしめき、道端に洗濯物・・・いろんな要素が狭いエリアに凝縮されていて、どことなく大陸的な混沌さとダイナミックさを感じさせてくれます。

070926hanok3当てずっぽうに先に進んで行くと、ちょっとした商店街が。日本語も併記された店もあり、飲食店が並んでいました。ここも観光スポットになっているのでしょう。
街並みもいいのですが、それよりも、頭に大きな段ボールの箱を3個も載せて、私の前を歩いていた女性が気になって(笑)。“大原女”というよりは妙に東南アジアチックで、たくましく見えました(※右写真クリックで拡大)。

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ただ何となく歩いていると、袋小路によくはまりました。道が決して直線ではないため(意図的に曲線的にしている模様)、先の見通しが利きません。
壁材は煉瓦や石積みで、木材も何か塗料のようなものが塗布されていて、日本の住居建築と風合いが異なります。日本人の目からすれば蔵造りのように重厚な印象を受けます。
また、寺院のように屋根の形が反っているのがどことなく唐風(韓風、と言っていいのかどうか?)で、これも日本の家屋との相違点でしょうか。

11時過ぎにはホテルに帰りたかったので、ざっと見回った程度で帰路に着きました。
駆け足に近いスピードでの、この日のぶらり散歩でしたが、短い時間でも韓国の生活・文化の一端に触れることができ、非常に興味深く見学できました。
やはり、訪れた街を知るためには、歩くことが基本ですね。

参考までに、今回のぶらりルートを下図に示しました。

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(※クリックで拡大します)

次回は、この散歩の前日に訪れた、朝鮮王朝最初の王宮・景福宮(キョンボックン)をご紹介いたしましょう。

(つづく予定/(笑))

 

追記:
070926apartガイドさん曰く、
「現代のほとんどの韓国人は、アパート・マンション等の集合住宅に住んでいる」
とのことでした(7~8割くらい、という高い率で)。
写真は、ソウルから全州に向かう高速道路の車中から撮ったものですが、ソウル以外の都市でもこのような高層アパート・マンションが、“雨後の竹の子”のように林立しています。地震の少ない韓国ならではのスレンダーな構造です。
時代が変われば、ライフスタイルも変わる、、、という典型例でしょうか。
隔世の感がありますね。

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2007/09/12

【AWAY紀行】まほろばを訪ねて(2)東大寺大仏殿編

ちょっと間が空きましたが、

 「大和は国のまほろば」

平城の都・奈良のトボトボ歩き紀行の第2話です。

前回の“興福寺編”につづき、今回は、この国の歴史を語るうえで欠かすことのできない、『東大寺』を駆け足で訪ねる旅です。
「東大寺なら修学旅行で行ったことあるよ」と申される方が多かろうかと思いますが、私が通っていた高校には修学旅行というものが無かったので(昔、不祥事があったらしい)、この歳で、このたびが初めての東大寺参詣となりました。

(前回のお話は、こちら

070816toudaiji1 飛火野の入口を左折し、真っ直ぐに北上すること数分、門前の仲見世に辿り着きます。その視線の先には、東大寺南大門が。
すると。
奈良公園名物の“鹿”の存在が、私たちを苦しめはじめました。
わが庭とばかりに悠々と歩く鹿を「見るだけ」でしたら別に問題はないのですが、いわゆる「フンの臭い」が、たぎった空気と混じり合って、猛烈に襲いかかってきたのです。写真でお伝えできないのは、皆さまにとっての幸い(笑)・・・真夏の真昼の奈良公園には、そんな思いがけない試練が待っていたのでした(^^;
フンの臭いを払いのけるように、先へと進みます。(@◇@;)ゼーゼー

【 2007年8月16日 11:20ごろ 東大寺南大門】

070816toudaiji2当然のことながら、『古都奈良の文化財』として、興福寺などと共に世界遺産に登録されています。東大寺は、聖武天皇の発願により創建さた金鐘山寺(きんしょうせんじ)を起源としています(728年)。『国分寺・国分尼寺建立の詔』(741年)の翌年に金鐘山寺は大和国国分寺となり、その後『盧舎那大仏造顕の詔』(743年)を発令し、当時の都・紫香楽宮~難波宮から再遷都した聖武天皇は、この地で本格的な大仏造立を開始(747年)しました。その頃から、総国分寺“東大寺”の名が使われるようにな070816toudaiji3ったそうです。開山は華厳宗の良弁(ろうべん)僧正。 日本史の教科書には必ず載っている、現代では到底成し得ない壮大な国家プロジェクトの舞台となったことで知られている、あまりにも有名な寺院です。
詳細については、私がどうこう説明するより、下記サイトをご参照くださればと思います。
 ・東大寺HP
 ・東大寺(Wikipedia)

070816nandaimon 東大寺南大門。
創建当時のものは災害損失し、現存する門は鎌倉時代(1199年)に復興されたもの。中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様・てんじくよう、ともいう)を採用した建築として著名な建造物です。長年の風雪に耐え、かなりの傷み具合でしたが、かえって悠久の時の長さ、歴史の重みを語りかけられる思いがしました。『大華厳寺』の銘板が掲げられています。

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南大門と言えば、金剛力士像。世界最大の木造彫像として国宝指定されています。
人間というものは、“本物”を目の当たりにすると、頭の中が空っぽになってしまうのでしょうか・・・気が付いたら、口をポカンと開けて圧倒されて突っ立っている自分がそこにいました。
鎌倉時代の高名な仏師である、運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が制作に当たりましたが、平成の解体修理の際、像内に納められていた文書から、彼らが小仏師多数を率いてわずか70日程度で造立したものであることが裏付けられ、運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられているそうです(以上、Wikipedia等を参考にしましたが、この話は以前TVで見た記憶があります)。
なお、右に吽形、左に阿形を配していますが、これは一般的な安置方法とは逆なのだそうです。
檜の寄木造り、高さ約840cm(左写真の下に写っている人物と比べればわかりやすいです)、重さ約6tの巨像・・・800年以上も前の技術の高さと確かさ、圧巻です。

【 2007年8月16日 11:30ごろ 東大寺金堂(大仏殿)】

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070816daibutuden5 私も、割といろいろな寺社巡りをしているほうですが、見た瞬間、あまりの迫力に呆然と脱力してしまいました。広大なる敷地に堂々とそびえる“天平の甍”。 
何と言いますか・・・宗教的な迫力と言うよりは、千年以上も昔の国家権力の強大さをまざまざと感じさせられました。政教一致の国家プロジェクトとして、前述の『国分寺・国分尼寺建立の詔』(741年)と『盧舎那大仏造顕の詔』(743年)を発令し、あまたの国費と人材が投入された大仏殿の姿は、当時頻発した社070816daibutuden2会不安を払うための国家安寧と国体維持の象徴として、現代にもその威厳を放っているように見えました。しかし大仏造立後の国政は、聖武天皇の願いとはかけ離れて財政逼迫し、民衆は疲弊してしまうという現実に見舞われてしまいます。。。

東大寺盧舎那仏・・・いわゆる『奈良の大仏さま』は、大仏殿と共に2度の戦火にあっており、それに加えて補修も多く行われていることから、台座、腹、指の一部などごく一部に当時の原型を留めているそうです。江戸時代に再建された大仏さまと大仏殿が現存のもので、大仏殿は創建当時の3分の2程度に縮小復元されたということですから、創建当時の規模に思いを馳せれば、いかに国家の命運をかけた壮大な国家事業であったかが伺えます。

070816daibutuden3 

余計なこととは思いつつ(笑)、大仏さまの後ろ姿をおさめさせていただきました。
随分と「絶壁」です、って罰当たりが・・・金色の光背(後光)に補強材が施されていました。

 

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大仏殿の四方には、四天王立像が配されていたそうなのですが、広目天像、多聞天像については、頭部だけが残されていました。
拝観したときが真っ昼間だったので面と向かって拝めましたが、真夜中にお会いするのは・・・ちと勘弁して欲しいものです(汗;

 

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大仏殿にて、お守りを購入。
左はヘマタイト製念珠。磁気入り(笑)。虎目石も配されています。ヘマタイトは「勇気と自信、闘いの守り石」と覚えがあったので、即購入(“磁気入り”も動機ですが)。
右は“勝守”。条件反射的に手が出たのですが、赤い袋が無かったのが至極残念!(笑)。
購入後、このお守りで3連勝しましたが(以下省略)。

ゆっくりと足を止めて拝観したいところではありましたが、時間は容赦なく過ぎていきます。

名残惜しくも早々に切り上げ、『修二会』で知られる二月堂へと歩を進めます。

(つづく)

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2007/09/06

【AWAY紀行】まほろばを訪ねて(1)三条通~興福寺編

万博でのガンバ戦の翌日。
070816jrtennouji 観測史上国内最高気温の記録が出たこの日、朝っぱらから炎天下を取り憑かれたようにトボトボ歩く脳天気夫婦は、関西でも大活躍 (゚∀゚)凸ファンキー!
例によって、ガイドブック無し、でも全国時刻表あり(笑)、行き当たりばったり思いつきの旅のはじまりはじまり。
盂蘭盆恒例『五山の送り火』で鬼混みが予想される京都を避け、まずは新大阪から天王寺へと移動し、天王寺からJR関西本線に乗車。電車に乗ったはいいけれど、
「どこ行く?」 
電車の行き先から、法隆寺に行こうか、平城宮跡に行こうか・・・などと乗車中は問答しきり、結局降りたところは、、、

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  終点。

【2007年8月16日 JR奈良駅 10:22着】

かえって悩みもなくなり楽になったところで(笑)、観光案内所で情報収集。
交通事情的に最繁忙期のこの時期、帰りの新幹線の予約を変更するわけにはいかないので、せめて発駅を新大阪→京都に変えてみたものの、それでも奈良滞在可能時間は、

3時間程度。

「3時間で歩いて行けるところ」と制限すれば、おのずと行き先も決まりました。
三条通から興福寺~春日大社参道~東大寺を訪れることに。

 大和(倭)は国のまほろば
   たたなづく青垣 山隠(やまごも)れる大和(倭)し  美(うる)わし

倭建命(日本武尊:やまとたけるのみこと)が、東国遠征からの帰途、伊勢国・能褒野(のぼの)の地で、故郷の大和の国を偲んで詠んだとされるこの歌(『古事記』に収録)。
 #当時の皇居は纒向日代宮(まきむくのひしろのみや:桜井市あたり)に存在していたと推察されていますが、総じて「大和国」を歌ったものと捉えられているようです
間もなく遷都1300年を迎えるこの国の“まほろば”、大和平城の都・奈良のごくごく一部を、しかし代表的な場所を、短時間で歩き訪ねてみました。
たった3時間のぶらり旅ですが、今回は“興福寺編”“東大寺大仏殿編”“二月堂編”の豪華3本立て???(話を引っぱってるだけじゃ/笑)にてお送りいたします。

【同日 三条通】

070816nara3joh1 駅を背に、左斜め方向から入り、真っ直ぐに伸びる道が三条通。炎天下に歩く人もまばら。歩く人も日陰に吸い寄るように歩いています。
いわゆる昔ながらの『○○通り』の風情を演出しているようにも見えますが、駅が近いので繁華街の色彩が濃いのはやむなしというところ。こちらも勝手な先行イメージがあったので、通りの名称表示もなく中途半端な雰囲気に「ここが三条通?」と迷いました。できれば、通りの入口にでも道案内の看板が欲しいところ。

070816nara3joh2 途中、上記“先行イメージ”に近い、古い店構えも見られましたが、近鉄奈良駅付近となると、古風な商家のそばにパチンコ屋があるといった状況に。確かに生活圏エリアにおける景観規制は現実的に難しいものがあることは、私も仕事で経験したことがあるので承知しているつもりですが、しかしこの道は奈良公園までの“玄関口”となる観光ルート。(建物の高さ規制はあるように見受けられましたが)京都と比べると、景観条例の規制と住民意識レベルのほどはどうなのでしょう・・・と、観光客の視線で思った次第です(^^;。

070816narapark1 三条通をまっすぐ歩くこと20分程度、右手に猿沢池が見えてきたところが奈良公園の入口。
左手の坂のすぐ脇に興福寺の境内があります。
 ※クリックで拡大します

 

【同日 11時ごろ 興福寺】

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興福寺は、藤原鎌足の病平癒を願った夫人(鏡大王)が、山背(山城)国に建立した『山階寺』が起源とされています(669年)。その後、壬申の乱(672年)を経て都が飛鳥(藤原京)に再遷都の折、山階寺も移建され、その地名から『厩坂寺』と改名。そして平城遷都(710年)の際、鎌足の子息・藤原不比等により移建され、現在の『興福寺』となったそうです。この経緯からわかるように、元来藤原氏の個人的な氏寺なのですが、この後は国家による造営が進められたそうです。
詳しくは、興福寺HPならびにWikipedia(『興福寺』の項)をご参照ください。

写真は、興福寺五重塔。天気が良すぎたのと、被写体が大きすぎて近景が難しく、安物デジカメのレンズとホワイトバランス機能ではうまく写せませんでした。肝心のカメラマンの腕は、「オート任せ」ですので突っ込み厳禁ヨロシクです(笑)

070816koufukuji3 平成22年(2010年)の創建1300年記念に向け、現在興福寺では中金堂院や伽藍を中心とした興福寺境内の再建整備を進めており、そのための発掘調査が行われています。
壮大な再建計画のゴールは、よくよく考えてみると近い将来なので、再び訪れる時の楽しみができました。
 ※クリックで拡大します

境内には、奈良公園お約束の“鹿”。
 ※お断り:ここの“鹿”には罪はござい070816koufukuji2ません(^^;

 ♪奈良の春日野 青芝に
   腰を下ろせば 鹿の・・・

やめておきましょう(笑)。
『オレたちひょうきん族』世代・・・
 #吉永小百合さん、ゴメンナサイ m(_ _)m

確かに、ここの鹿には罪はないのですが、この鹿の存在が、この日の気候と相まって、のちのち重くのしかかってきます(そのお話は、次回にでも)。

070816koufukuji4 もっとゆっくり参詣したかったのですが、3時間の持ち時間のうち、すでに1時間近くを費やしてしまったため、先を急ぐことに。興福寺の代名詞とも言える阿修羅像拝観はあきらめました。ここで拝んで済ませました、どうぞお許しを・・・次回は必ずお目もじを

興福寺境内を出て、もと来た道に戻り、春日大社参道へと歩を進めます。

070816narapark2一ノ鳥居をくぐると、荘重な雰囲気の参道がまっすぐに伸びています。

 ♪春日山から飛火野辺り
  ゆらゆらと影ばかり 泥(なず)む夕暮れ
  馬酔木(あせび)の森の 馬酔木(まよいぎ)に
  たずねたずねた 帰り道

うぃあーソングライター”さだまさし大先生の名曲『まほろば』の、歌詞で表現されている道を逆方向に、すなわち春日山方面に近づいて歩いています。
時間が許しても許さなくても、この先にある飛火野から馬酔木の森に歩を進めたかったのが本音でしたが・・・飛火野の入口を断腸の思いで左折して、東大寺方面に泣く泣く向かったのでした (つ;д`) エーン・・・

070816narapark3と、その前に、、、(飛火野入口の)表参道の手前にあった古い洋館に目を惹かれました。美しい外観のこの建物は、『旧奈良県物産陳列所』として明治35年(1902年)に建設されたとのこと。案内板の看板のとおり、洋風の建物に瓦葺きの屋根、玄関前には唐破風の車寄せ屋根が施されています。名勝・奈良公園の景観に配慮し、平等院鳳凰堂をモチーフに設計されたそうです。現在、奈良国立博物館附属の『仏教美術資料研究センター』として活用されていますが、国の重要文化財にも指定されています。
激動する文明の変化の中にあっても従前の環境に配慮した明治人の気品を、現代人は見習わなくてはならない、、、その好例と言えそうです。

ちょっと気を惹かれて立ち止まっていると、時間はどんどん過ぎていきます。
飛火野沿いの道を北上し、東大寺南大門方面に、急ぎ歩を進めます。

(次回へつづく)

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2006/11/29

【AWAY紀行】岐阜城

【岐阜城(ぎふじょう) 岐阜県岐阜市:岐阜駅よりバスで20分】 2006年11月19日 訪 

「天下布武」
信長の野望。

最終決戦直前のタイミングでこのエントリをアップすることになったのは、何かの巡り合わせでしょうか・・・ただ単に、「月が変わらないうちに」という単純な理由だけかも知れませんが(笑)。

061119kisoriver名古屋戦の翌日、名古屋市内の四間道を訪ねたあと、「よっしゃ」と一念発起してJRに乗り東海道線を西へ。
レッズの「天下布武」を祈念するため、岐阜城に向かいました。
今回のアウェイ旅で、名古屋観光はしても、木曽川を越えた“ういあー”さんは、そういらっしゃらなかったと思います(岐阜市内では、見かけませんでした)。
実は、余り知られていませんが、名古屋~岐阜は快速で15分程度で行けるのです。バキューンと木曽川越えを敢行し、岐阜市内へ。

061119kisostJR岐阜駅より、バスにて金華山の麓にある岐阜公園へ向かいます。市内バス路線は豊富にあり、浦和駅ほどではないものの、バスの本数は困らないくらいにあります。バスに乗り、市内中心部・柳ヶ瀬を通ると、やはりお約束『柳ヶ瀬ブルース』を口ずさんでしまう私は華麗です(爆)。 ついでに言うと、美川憲一の顔も脳裏をよぎりましたです、ハイ。 

 

061119gifu2バス停から金華山にそびえる岐阜城。ここは昔、『稲葉山城』と呼ばれていましたが、織田信長が斎藤龍興を破ったのち、『井ノ口』を『岐阜』に、『稲葉山』を『金華山』に、『稲葉山城』を『岐阜城』に改称しました。
 何の因果か知りませんが、私の父の名は『龍興』・・・(^^;

 

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交差点を渡り、岐阜公園着。
雨が降らぬうちに、ロープウェイにて金華山を一気に登ります。 

 

 

061119gifu3実は~~~高所恐怖症
  (@∀@;)/~
  ((((;゜Д゜)))
  ヽ(`Д´)ノウワァァァァァァン
(写真は、復路で撮影しました)

 

061119gifu4 山頂駅着。
ここからさらに階段を登ります。
ロープウェイの先を登るという険しさは、戦国の世に難攻不落と名を轟かせた城だけのことはあります。

  

061119gifu5歴代城主を説明する案内板(※クリックで拡大します)。
稲葉山城=岐阜城と聞けば、やはり司馬遼太郎の『国盗り物語』が思い出されます。
子供の頃、NHK大河ドラマ『国盗り物語』をリアルタイムで視て、子供心に戦国時代の歴史に初めて触れた感動を今でも覚えています。確か、斎藤道三を平幹二郎、織田信長を高橋英樹(「桃から生まれた・・・」よりずっと前。この信長役で高橋英樹は大ブレイクした)、濃姫を松坂慶子、藤吉郎を火野正平が演じていたのは、記憶に鮮明に残っています。

061119gifu6 斎藤道三は、油売りから僧となり、姓を得て武士になると、次々と仕官先を乗っ取り、ついに稲葉山城主となりました。その知略謀略から『美濃のまむし』と言われた、戦国下克上を体現したことで有名な人物です。しかし、最近では、その前半生は父・長井新左衛門尉のもので、親子2代を合わせた人物ではないかとの説が有力となっています。ちなみに、隠居後の『道三』の名は、「商人」「僧侶」「武士」の3つの人生を歩んだことにちなんでいるとのこと。
また、信長の才を見込んで、娘・帰蝶(濃姫)を嫁がせた事でも知られています。

今は、同じく司馬作品の『功名が辻』の舞台として、多くの観光客が訪れているようです。大河ドラマの最初の数回で舞台になった城として、記憶に新しいところです。

061119gifu7 道三は隠居し、家督を子の義龍(実の子ではない説あり)に譲ったものの不和となり、ついにその義龍に討たれてしまいます。その戦いに婿の信長は援軍を送りましたが間に合わず。。。後年、義龍の子・龍興を信長が追放し、稲葉山城改め岐阜城となりました。
写真は岐阜城の歴史の解説板(※クリックで拡大します)。

いよいよ、岐阜城の天守閣に登ります。

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百聞は一見に如かず。
この眺めで、いかにこの城が美濃を制するための重要な拠点であったかがよく理解できました。眼下に長良川が流れ、濃尾平野を一望できる大パノラマは圧巻。しばし息を呑んでしまいました。岐阜の名は「阜(おか)が岐(わか)れる」ところ、まさにそのままです。
『国盗り物語』の名に相応しい舞台と言えましょう。
雨も降り出し、お天気に恵まれなかったのが非常に残念でした。

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『長良川競技場』、征服 ヽ(`へ´)ノ 
こっちは征服したんですが。。。_| ̄|○ orz

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金華山を下山し、遅い昼食をとることに。
美濃・尾張といえば、問答無用で“八丁味噌”(゜▽゜)
公園内の茶屋で、まずは『みそおでん』と熱燗でちびりちびり。。。
食事ですが、ダンナは『いも田楽と菜めしセット』、私は『豆腐田楽と菜めしセット』を注文。
『みそおでん』の具のちくわが、魚っぽくて美味。豆腐、いももそれなりに美味しかったのですが・・・最初の頃は割とイケてたのに、いかんせん、八丁味噌味ばかりでしたので、味がくどくなってしまったうえに、だんだん胃もたれが・・・定食のおかずの量も多かったので、『おでん』は要らなかったのかも知れません。
まあ、これも旅のご愛敬ということで。。。(^^;

061119nobunaga0 腹ごしらえを済ませ、公園をぶらぶら。園内では秋の風物詩、菊作品展が開催されていました。
そういうときのお約束が、これ。信長と濃姫だそうで。
ちょっと、、、夢に出てきそう。。。 ((((;゜Д゜)))

  

最後に、信長の居館跡を訪ねました。061119yakata

 

 

 

 

入口の門のところに、またこんなもの↑が。。。(´д`)061119nobunaga3

居館跡の発掘調査から、いくつかの整地した土層と焼土面が確認されていることから、斎藤氏が当主だったころを含め、複数の城主による造成が行われていたことが推察されるそうです。
写真は居館跡の解説板(※クリックで拡大します)。

 

061119nobunaga2 通路は鍵型にに曲がっており、容易な敵の侵入を防ぐ構造となっています。信長はこの城を拠点に天下統一を目指し、『天下布武』の朱印を使用するようになったそうです。一説によれば、信長は清洲よりここ岐阜の地を好んだとも言われています。

 

『天下布武』を、この地から目指した信長。
壮大な野望の足掛かりとなった地を訪ね、あらためて自分の中の、「頂点へ」の思いが強まりました。
敗戦は、「死」を意味します、、、「終わり名古屋」といきましょう。

共に闘い、共に頂点へ。All_come
浦和レッズの「天下布武」を成し遂げましょう!

がんばりましょう、最後まで。

 

061119itagaki おまけ:
岐阜公園は、かの自由民権運動の旗手・板垣退助が、遊説中に暴漢に襲われ負傷したことでも知られ、顕彰の意を込めた銅像が建立されています。
パロディで、こういうネタがありますね。

問:「板垣退助が刺されたとき、何と言ったでしょうか?」

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2006/11/22

【AWAY紀行】那古野・四間道

もう旅をするお金はございません..._| ̄|○
年内の旅は、これでご勘弁ください(笑)。

当初は熱田神宮へ行こうと予定していたのですが、「負けたうえに、敵の神様のところに必勝祈願なんか行けるかぁ!」とダンナに一喝されましたので、やめますたw

日帰りしようと思えばできたのですが、名古屋に一泊。
あまり観光客が行かなさそうなところというマイナー指向にて・・・朝起きた思いつきで「ここ」にしました。
JR名古屋駅にほど近い『四間道(しけみち)』界隈は、かつての名古屋城下の商家が軒を連ねていたところで、今も面影を残しています。

061119horikawa1写真は堀川に架けられた『五条橋』。
かつて清洲城下に架けられていた橋を、“清洲越(きよすごし)”という、慶長15年(1610年)から行われた清洲からの町ぐるみの引っ越しの際、この地に移設したものだそうです。
この先に円頓寺(えんどうじ)商店街という商店街がありましたが、かなりタイムスリップしたレトロな商店街でした。店先の犬の置物・・・と思っていたら本物だったりするし(笑)。

061119horikawa2 次の写真は、堀川の様子(左)と、その裏手(右)の通り。
歩いていたら、材木屋さんが今も点在していました。川に面した家構えが、かつての舟運利用を偲ばせます。右写真は堀川沿いに1本入った通りですが、こちらは写真のところだけで、あまり往時の建物は残されていません。061119sikemiti2

このもう1本入った道が、『四間道』の通り(神社前を右に曲がった通り)。風情のある佇まいの浅間神社が見えました。ダンナが以前、夜来たとき、この鳥居のライトに明かりが灯っている様子が幻想的で良かったと言っていました。

  
061119sikemiti3

浅間神社の横にあった案内板(※クリックで拡大します)。
『四間道(しけみち)』の名の由来は、元禄13年(1700年)の大火の後、防火目的と商業活動のため、尾張藩主の命により、ここの道幅を四間(約7m)に広げたことから来ているそうです。

  

061119sikemiti45  

 

 

 

 

名古屋市の『町並み保存地区』に指定されているようなのですが、保存地区にしては景観が中途半端な印象。立て看板なども散見されます。修理するなどもう少し手を入れたほうが良さそうな気がします。こういうものは、「つくる景観」「かざる景観」になるとあざとくなりますが、修理061119sikemiti6や管理、印象のギャップが大きいものや雑然とした設置物の撤去などで、ずいぶんと見違えるものです。「手入れされている」とか「生活の機能を担っている」という印象を与えるだけで美観が向上します。例えば舗装や植栽を工夫することでも印象が変わります。せめて右の写真のように、住民の気配りが表れるだけでもグッと違ってきます。せっかくの歴史文化資源ですから、うまく活用して欲しいものです。
おっと、、、ついつい仕事の目で見てしまいました(^^;ゞ

061119nagono『四間道』をあとにして、ぶらぶらと歩いていたところ、ふと気づきました。
同じ町名なのに、“区名”が違います。
さいたまでは、新都心のあたりの『上木崎』が鉄道で分断されていますが、鉄道の西側の『上木崎』は『浦和区』で、飛び地のようになっています。
ここは分断する障害物はないのですが、普通に区名が異なっています。
ちょっと珍しいものを発見して、得な気分になりました(^^)。
ちなみに「なごや」ではなく「なごの」と読みます。

061119yanagibasi

 

 

 

 
名古屋駅に向かう途中、遠回りして柳橋の中央市場を散策。
こういうところの町並みは、かえって雑然としていた方が生活感や賑わいがあっていいものです(^^)。
右の写真は同所から名古屋駅のタワービルを見上げたもの。
あまりにも両極端!(笑) 隔世の感があります。

市場を通り抜けて、JR名古屋駅から次の目的地に移動します。
行き先は、かの「天下布武」ゆかりの地。
あ、清洲じゃないですよ、そのもう少し先・・・
レッズの「天下布武」のためにも、行かねばなりません。

(つづく)

061119los 追記:
名古屋名物・テレビ塔近くの久屋大通に、「こんなもん」がありました。。。

 「ロサンゼルス」ねえ・・・三等兵移籍か?(笑)

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2006/10/06

【AWAY紀行】京の味&みやげ

さて、そろそろ上洛紀行のシメをいたしましょう。。。

【京の味 あれこれ】

  • 9/30昼:京都駅ザ・キューブB1F『味わい処 西利』
    “京漬物丼”と“京漬物天ぷら・うどん”を実食。
  • 9/30夜:河原町 焼肉『南大門』
    意外に京都は「焼肉の街」(在日の人が多いから?)。店舗数多し。
    祝勝会とあって、我が家史上最大の大投資!!! ((((;゜Д゜)))
    木屋町の割烹が高価で入れなかったのに、それより高く付いてしまい・・・
       _| ̄|○
  • 10/1朝:五条大橋のコンビニおにぎり(↑スゴイ落差)
    全品100円。なんと“小鯛すしおにぎり”(富山産)も100円で!ちょっとラッキー。
  • 10/1昼:『南禅寺御茶所』
    “湯豆腐定食”実食。ちょっと他店舗より安値(2700円)。
  • 10/1おやつ:京都駅近鉄名店街の麺屋
    “きつねうどん”“にしんそば”実食。
    北陸との交易がある京都。“にしん”は食文化の共通項。美味。

ということで、2点をピックアップしてご紹介。

『味わい処 西利』

京都の大手漬物店『西利』が直営する食事処。全品漬け物づくしの店。にぎり寿司も漬け物。動物性蛋白質は一切なし、と徹底したコンセプト(笑)。
しかし、、、うちのダンナは無類の漬物小僧なので、そんなことは一向に気にならず、というか「望むところ」。
ダンナが“京漬物丼(840円)”、私が“京漬物天ぷら・うどん(1050円)”を実食。
060930nishiri

 

 

 

 

“京漬物丼”(左)は、「しば漬け」や「すぐき」など数種類の刻んだ漬物を盛ってあるだけのシンプル丼。しかしこれが美味(^o^)/。お好みにより、猪口に入ったつゆ(食前酒ではありませなんだ)を加えますが、そのままで充分。また、味噌汁は粕入りで不思議な味でした。
“京漬物天ぷら・うどん”(右)は・・・区切りの「・」に意味がありました。つまり「京漬物天ぷら」と「うどん」でした。漬物の天ぷらは初体験。なす天にはしば漬けがサンドされています。かき揚げも漬物。大根付けの天ぷらがホットで・・・なんとも不思議な味。ダンナと分けて食べましたが、さすがに西京極で喉が渇きました。「うどん」のほうは、「白石温麺」といったところでしょうか。
ここまでメニューが徹底していたら、天晴れというほかございません。
ダンナは大満足でした(笑)。

■『南禅寺御茶所』

061001tofu1南禅寺三門のすぐ脇にあります。
看板に思いっきり誘われました(笑)。

 

 

061001tofu2 湯豆腐定食(2700円)を注文。坂の下の他店舗より若干安めの値段。
料理が出てくるまで、手元の箸袋に目を遣りました。
いかにも精進らしい質素なデザイン。袋の裏には『食事五観』なる教えが書いてありますが、空腹のため馬耳豆腐もとい馬耳東風(笑)。

ダンナが『漬物小僧』なら、何を隠そう、私は無類の『豆腐小僧』なのです。1丁2丁はぺろっと食べますし、 毎日湯豆腐でも幸せです。私の成分の70%はイソフラボンでできています。
 #当サイトに時々出没する『豆腐小僧』さんはこちら。元気かな?(笑)
061001tofu3

 

 

 

 

料理が出てきたところで、たくさん歩いて喉がカラカラでしたが、ここはビールではなく、冷酒をちびりちびりやるのが「おつ」というもの。
山菜の和え物、ひじき、豆腐の田楽、ごま豆腐をつまみつつ、、、薄味で美味。
メインの湯豆腐は絹豆腐。昆布ダシの効いた湯の中に浮かんでいます。付けダレもダシが効いており、そのままでも美味しいのですが、もみじおろしとネギを入れると一層美味しさが引き立ちます。ネギはやはり関西、小ネギ使用です。
舌鼓を打つたびに減っていく豆腐を、惜しみつつ平らげました。正直、この土鍋1杯分を私一人で食べても足りないくらいでした。おかわりすれば良かった(笑)。
店内には、他に“ういあー”さんが2組ほどおりました(^^)。
ごちそうさまでした、大変美味しゅうございました。

【京のみやげ あれこれ】

■『漬物小僧』向け

061001miyage1 “しば漬け”“すぐき”は帰宅後即開封のため、中身は既に消滅(爆)。
“賀茂なす味醂漬け”“ごぼう浅漬け”“聖護院かぶら千枚漬け”・・・以上、5種。

 

■『豆腐小僧』向け

061001miyage2 “生ゆば”と“湯豆腐のたれ”。
“湯豆腐のたれ”は、南禅寺近くの湯豆腐屋『順正』で購入。

 

 

■その他

食料系。 061001miyage4
左はサントリー『伊右衛門』でご存じ、京都福寿園の“お茶”。
右は“湯豆腐のたれ”同様、『順正』で購入した“ちりめんさんしょ”。

 

 

雑貨系。061001miyage3
先日のエントリのコメントで欲しくなった“匂い袋”(笑)。
あとは“お香”と“ちりめん風呂敷”。

 

そして、何よりのおみやげは・・・
やっぱりこれでしょう!

061001shinbun_2  

10/1付、京都新聞朝刊、スポーツ面 (゜∀゜)
 #クリックすると拡大します。多少は読めます。

以上、今年の京都AWAY紀行でした。
読者の皆様には、一週間お付き合いくださり、誠にありがとうございました。

<了>

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2006/10/05

【AWAY紀行】京都東山散策(3)琵琶湖疎水~南禅寺~八坂祇園

知恩院から三条通に出て、地下鉄東西線の蹴上駅方向へ。
近くにある『琵琶湖疎水』を訪ね、南禅寺で昼食を取り八坂神社へ寄ったあと、祇園を散策の終点とします。

【2006年10月1日(日) 11時すぎ 琵琶湖疎水】061001sosui1

蹴上駅の上に『蹴上浄水場』があります。その水源は琵琶湖の水です。
駅の向かいのレンガ造りの隧道を抜け、右手の坂道を上ると、小さな公園があります。そこは『琵琶湖疎水』の史跡公園です。
『琵琶湖疎水』・・・明治維新後の京都の産業・経済の近代化に多大なる貢献を果たした導水事業です。東京遷都により衰退の061001sosui3危機にあった京都の街を振興させるべく、琵琶湖から引いた水を利用して、日本初の急速ろ過方式浄水場や水力発電所を建設し、飲料水と電力を供給しました。電力はまた、日本初の路面電車を京の街に走らせ、西陣織などの伝統産業を機械化し近代産業へ結びつけました(以下、詳しくはここをご参照ください。また、右案内板写真をクリックすると拡大します)。

061001sosui2 この琵琶湖疎水開通の偉業を成し遂げたのが、当時、大学卒業したばかりの若干23歳の土木技術者・田辺朔朗です。経済的・物理的・技術的な幾多の困難を、「100年先の未来を見据えて」耐え抜きました。その功績は、現在もなお京都の街の生活基盤を支えています。
何故ここに来たかったかと言うと、私は大学で土木工学を専攻し、今でも夫婦ともども関連の仕事に就いているからです。そういうことから、近代土木技術の先駆者である彼の功績を訪ねたいという気持ちは自然と湧いてくるものです。ここ琵琶湖疎水事業と木曽三川宝暦治水事業は、私が今の仕事を選んだ原点です。
十数年ぶりにここを訪れましたが、依然と変わらず人影はまばらです。この街の名勝古刹と比べれば目的がないと訪れる機会がない場所ですが、京都の近代史を知る穴場と言えば穴場です(^^)。
061001inkline 以下、簡単にご案内。
疎水は運河としても機能していました。舟運のため、水位差のある当地での舟移動のための傾斜鉄道“インクライン(。写真左)”と舟の運搬用台車(写真右)です。

061001keage 発電用の水管。
この下に水力発電所(蹴上発電所)があり、関西電力が管轄しています。

先人の遺業に思いを馳せながら、史跡公園を後にして、南禅寺へと向かいます。

【同日 11時半ごろ 臨済宗大本山南禅寺】

061001nanzenji1 雨足が強くなってきましたが、まずはお参りに・・・
ここの山門(三門)は日本三大門ということで、知恩院に同じく誠に見事で壮観な三門です。石川五右衛門の「絶景かな(゜∀゜)」でも有名です。
多くの人が、雨宿りで軒を借りていました。

 
061001nanzenji2
山門から法堂に向かう参道。
紅葉の時期は、とても画になりそうです。
良い時間になってきたので、お参りを済ませてお昼を。。。

 

061001tofu 
さあ、新撰組に打ち勝った『湯豆腐』の時間です(笑)。
三門すぐ脇にあった『南禅寺御茶所』にて、いざ実食!

 ※詳細は、別エントリにて紹介いたします

あ、、、味ですか?
もちろん「美味しゅうございました」(゜▽゜)

湯豆腐を食べたあと、再び南禅寺境内へ。061001sosui6
もうひとつ行くところがありました。それは琵琶湖疎水の水路橋が境内を通過しているところです。レンガ造りの美しいこの水道橋は『水路閣』と呼ばれています。
「何故南禅寺の境内に(疎水を)通したのか?」という疑問について以前仕事で調べたのですが、「(線形が短いなど)工事上都合が良かったから」という単純な理由だったようで、さらに水路のデザインも特別配慮していなかったようです。「当時は景観な061001sosui7どという考えが無く・・・」という内容のことを 田辺本人が語った記録がありました。“きよぶた”同様、昔の技術はスタンダードに丁寧さと美しさを兼ね備えています。まさに『用・強・美』。古来の風情に近代建造物が絶妙にマッチした奇跡的な佇まいと言えるでしょう。
(写真上は水路閣、写真下は水路閣上部の水路の様子)

午後になり、帰りの新幹線の時間も近づいて来ました。
少し道を急ぎます。

【同日 14時ごろ 八坂神社】

061001yasaka1ここは祇園の守り神として信仰を集めてきたところです。夏の『祇園祭』はあまりにも有名な行事です。
到着した時には、多くの参拝客で賑わっていました。
境内入ってすぐ左の『絵馬舎』という建物の壁に、ひときわ目立つ絵馬が掛けられていました。
読むと「坂田藤十郎襲名披露記念 平成十七年十一月吉日 中村鴈治郎」061001yasaka2
とありました。ああ、そう言えば昨年でしたっけ・・・。
芸人の信仰も厚いことから、他に藤山直美さんの奉納提灯なども境内にありました。

話は戻りますが・・・この神社の前に新撰組は集結し、ここから祇園と木屋町に隊を2手に分けて長州の過激派探索に向かったそうです。いわゆる“池田屋騒動”の出発点となった場所でもありました(木屋町隊が池田屋で発見しました)。

【同日 14時半ごろ 祇園界隈】

061001gion

四条通の人混みがひどかったので、ちょっと脇道にそれてみたら、偶然『花見小路』に入ってしまいました。この小路入口の角に有名な『一力(いちりき)亭』があったのは、あとになって知りました(笑)

かつて、大石内蔵助が世間の目を眩ますために茶屋遊びをした、そして近藤勇も西郷隆盛も大久保利通も訪れた、その茶屋のある界隈です。

「歴史は 夜 つくられる」

どうやら散策の最後は、やはり「維新」で締めとなりました。

ぶらぶらとしていたら、もう京都駅に行かねばならない時間になりました。
『南座』脇の京阪四条駅から地下鉄に乗り七条で下車、そこから歩いて駅へと向かいました。

千年の歴史と文化に裏打ちされた、自信に満ちた「格」のある街・京都。
同時に、今でもさまざまな宗教宗派がひとつの街に集積するさまは、現代日本の中で、いや世界の中でも際立つ個性を持った街として、魅力を放ち続けています。

雨に降られて残念な散策でしたが、しっとりとした京の街も悪くないものです。
あとひと月もすれば紅葉に染まり、恐ろしいほどの美しさに包まれた街と化すのでしょう。
紅葉には少し早い今回の旅でしたが、そのかわり、
“ういあー”さんたちが京の街を真っ赤に染めぬいた
そんな10月初旬の旅でした(笑)

わー、歩いた、歩いた、ちかれたびー _| ̄|○ ハアハア・・・

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