たびたび

2009/10/08

中山道中膝栗毛@いよいよ最終章

昨年1月、日本橋から歩き始めた中山道の旅も、ついに残り五十数㎞となりました。

20090921minoohmi

9月の連休、等々力での勝利を見届けた翌日、加納宿(岐阜市)へと向かい、そこからとぼとぼ歩いて西進、木曽三川を越え、関ヶ原を通り、ついに美濃国から近江国へと入りました(この溝の部分が国境です)。
現在、愛知川宿(滋賀県愛荘町)まで歩いています。

今週末の連休で、長かった中山道の旅に終止符を打ちます。
終点である京・三条大橋を目指して、残りの道程を一歩一歩踏みしめて参りたいと思います。

途中の道中記がまだ埼玉県内までしかご報告してないのに、旅の終わりを予告することとなり甚だ遺憾ではございますが(笑)、無事に三条大橋に到着いたしましたら、簡単にでもご報告させていただだきます。
全国約十数名のこの道中記の読者の皆さま、どうぞお楽しみに。

松本へ参戦されるサポの皆さま、わが家の分までサポートをお願いいたしますm(_ _)m
必勝を祈願して、歩かせていただきます。

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2009/09/10

遠征の楽しみ・・・それは『国盗り』(・∀・)b

月に1度の更新ペースにも慣れ(殴)、すっかり休眠サイトとなりましたこちら中年バンザイ@nigoeですみなさまごきげんうるわしゅう。

この夏は、さっぱり勝てませんでしたね。
秋になった途端、ようやく勝ったという報もありましたがw
いままで出来ていたことが、途端に出来なくなるという頭の痛い現状。気温の上昇に比例するようにパフォーマンスが低下するのは、このお方とも無縁ではなさそうですが、、、
まぁ、今日はそんなお話しは置いといて。
リハビリ程度の軽い話題のご提供を。

普段、電脳系ゲームとは親しみのない生活を送っている主婦ですが、昨年暮れからハマっているゲームがあります。

 『ケータイ国盗り合戦』(PC案内サイト)

大手地図サイト・マピオンとJRがタイアップして、最近の戦国ブームにうまく便乗した格好の携帯電話ゲームコンテンツです。

しかも、「タダ。」 ←主婦への殺し文句 
(※注:当然ですが、通信料はかかります)

今年のアウェイ遠征や中山道遠征など、とにかく出かける機会があるごとに『国盗り』に夢中になっています。万博に行くのに、岐阜から在来線に乗り、米原を経由して湖北回りで向かうという、いい大人にこんな手の込んだ酔狂なことまでさせてしまう魅力がある(笑)のが、このゲーム。

内容はいたってシンプル。600もの『国』に分割された日本全国を統一することを目的としています。携帯電話の位置情報システムを利用して、実際に全国各地の『国』を訪れて、『国』を攻略するだけ。
操作も簡単。ゲームに参加して『マイページ』を開設したら、攻略したい国に実際に行き、現地で“国盗りボタン”を「ポチッとな」と押すだけで、国を“統一”できます。
端的に言えば、携帯電話を使った、“現代版スタンプラリー”です。“統一国”の増加に伴い出世もでき、“コバン”(軍資金)も増えて、アバターへ武器などを装備することもできます。また、『SNS』機能もありますので、「お友だち」の紹介や、「お友だち」の戦況もうかがえます。
そして、もうひとつの楽しみとして、毎日出題される『クイズ』があります。戦国時代にちなんだ内容で、これが楽勝問題から難解な問題まで幅広くあります。最初の頃は持ち合わせた知識と勘で回答していたのですが、最近は必ず調べものをしてから答えています。遊びながら毎日歴史を学べるので、これも魅力となっています。

操作自体は子供でも出来る簡単なゲームですが、なにぶん交通費がかかり経済力や広範な活動力が必要なため、参戦“武将”は圧倒的に大人が多いようです。
特に、「出張サラリーマン」の方。
この夏、秋葉原でこのゲームのイベントがあったのですが、集まったのはリーマンだらけ(笑)。やはり趣味と実益を兼ね(ry

一度、この『国盗り』の世界にハマると止められなくなりますので、ご参戦の前にはよくよくご検討&お覚悟を召されることをおすすめいたします。
ゲームに参戦していないワタシのダンナまで、ワタシの天下統一が進むよう、あれこれ路線プランを練ってくれるほどになりました。同行者まで夢中にさせる、恐ろしいゲームです。最近、国盗りのための攻略本(下記リンク参照)も出版され、付録の白地図に、統一済みの国を赤鉛筆で塗りつぶし、ささやかな征服感を味わうのが楽しみで楽しみで・・・(◎´∀`)ノ
ちなみに本日現在、nigoeは197カ国を統一しております(武将名はnigoeに非ず。ふふふ、何でしょう?)。

都市圏にお住まいの方は、最初のうちは、電車に乗っただけで、面白いように次々と国が盗れます。特に首都圏ですと、笑いが止まらないくらい(´∀`)アハハハハ・・・
しかし、当たり前ですが、近くの国を盗れば盗るほど、遠くに行かざるを得ねばならず・・・これがこのゲームの魔力のようです。

出張サラリーマンの方はもとより、『乗り鉄』の方、『道の駅スタンプラリー』が趣味の方、放浪癖のある方、戦国好きの方、アウェイ遠征好きな『うぃあー』の方、、、適性は充分お持ちと存じますが、「それゆえに」(笑)くれぐれもご注意ください。

以上、アウェイ遠征の新しい楽しみ方ということで、ご紹介させていただきました。
さてさて残るアウェイは・・・と、川崎と新潟と調布と京都、、、だけ!? ((((;゚Д゚)))ガーン!
もっと早い時期にご紹介すべきでしたね、失礼しましたm(_ _)m

ひとりごと:
そうそう、天皇杯を全戦参戦すれば・・・(以下自粛)。

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2008/05/28

旅の“一発ネタ”@仙台編

この週末、豊田に参戦できませんでした。
現地へサポートに行かれた皆さま、本当にお疲れ様でしたm(_ _)m
ナビ杯@名古屋戦については、遅まきながら録画観戦いたしました。しかしながら、現地にも行けず録画参戦、さらに本日は水曜日・・・とあってはあれこれ論ずる立場でもないうえに時機を失してしまいましたので、今回の観戦記はパスさせていただくことにいたしました。

その代わりと言っては何ですが。

実は、先週半ばよりダンナの単身赴任地@仙台に滞在しておりました。
赴任以来、毎週末さいたまに戻って、アウェイも含めほぼ毎節参戦の日々でしたので、会社と部屋の往復路以外、当然仙台の街を知らず(笑)。
これでは生活もままならぬと、仙台の街や周辺を探訪することに。
ワタシもダンナの生活ぶりが心配でしたので、飯炊きと部屋の掃除がてら、仙台の街およびその周辺を訪ねることにいたしました。

050524matsushima1

少し仙台から足を延ばすと。。。
電車で30分足らずで、景勝地・松島にも行けます。

 松島や あゝ松島や 松島や (芭蕉)

残念ながら天候悪く、、、良好な眺めを得ることはできませんでしたorz...
ちなみに、『奥の細道』を踏破する予定は、現在のところございません。

さて、お話を仙台市内に戻して。。。
080525zuihoden1東北を代表する大都会・仙台。かつて戦災を受けたとは言え、街には城下町の風情もそこかしこに残されております。都会でありな がらも落ち着いた雰囲気があり、人々の所作にもそんな品格を感じさせるものがあります。

そして仙台と言えば、伊達家。伊達家三代の廟所のある瑞鳳殿からぶらぶらと、東北大の周辺を散策していたところ、、、

まさか、「こんなところ」で「こんなもの」に出会うとは、思ってもみませんでした・・・

 

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2008/01/10

旅の“一発ネタ”@鶴岡編

旅は道連れ世は情け。
鶴岡紀行が終わったところで・・・“一発ネタ”写真集です(笑)

今回、鶴岡で、ちょっぴり小ネタを拾いました。
あくまでも“一発ネタ”ですので、

 「だからなんだ?」

と言われてもワタシは困ってしまいます(笑)。
何卒、寛容さとご理解のほどを、、、(^^;

閲覧による「ウケる」「ウケない」は、自己責任にて(笑)、よろしくお願いいたします。

では1発目、、、

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2008/01/09

奥の細道と海坂藩を訪ねて(2)

前回のつづきです。

冷たい雨に打たれて街をさまよったの・・・などと、どこかで聴いたことのあるフレーズが頭をよぎるほど、東北の師走の雨は甘くありません。ここより温かな関東からやって来た軟弱者夫婦に容赦なく降り注ぐように襲いかかります。
ああ、冷たい雨・・・と思った時、ようやく気付きました。
今日は12月30日、大晦日前日、年の瀬も大詰め。
こんな日の地方都市の商いときたら、、、そう、そうなんです。

 「閉店」
 「閉館」

こんな看板や貼り紙が目白押しの季節。

071230heishindo 丙申堂(へいしんどう)到着。
見事、門前払い..._| ̄|○
向学のために概説を付記しますが、ここ丙申堂は、庄内藩御用商人・風間家が、明治29年に建てた住居兼店舗で、国指定重要文化財に指定されています。この屋敷は、映画『蝉しぐれ』で、ふくが落髪する前の俗世の名残にと、文四郎と再会し昔日を懐かしむ場面のロケで使用されたそうです。
まるで閉門蟄居の気分になりそうな画ですが、テコでも開かないのであれば仕方がありません。とっととあきらめをつけて、歩を進めます。
しかしながら、、、ひどい雨と風にだんだん雪がまじりだし、観光などと暢気な風情ではいられなくなりました(つ;д`)
そして、訪れようとしたところには、ことごとくフラれまくり・・・城の近くにある物産館もすでに「御用納め」。資料館や博物館などの観光施設はたいてい公共施設ですので、当然同様の状態。確実に開いているのは神社やお寺、、、
協議の上、まだ12時でしたが、次第に駅方面に歩き、早めの時間に鶴岡市内を引き上げることを決断しました。

ただそのまま退散するには悔しいので(笑)。
071230tsuruoka4 歩きながらでも何とかネタを拾おうと試みたところ、ありました。
丙申堂の近く(鶴岡幼稚園脇)を流れる小さな堀に、屋敷につながる舟着場がありました。こういうものは、今日まで城内に堀と屋敷が残されたところでないとお目にかかれません。昔の面影が残された風情は、当時の生活の様子などへと想像を掻き立ててくれます。
急遽短き道中となりましたが、少しでも鶴岡=海坂藩の雰囲気に触れようと、道を選んで歩きます。

071230ryuukakuji

 

 

 

 

 

 

龍覚寺、着。
実際の寺名は龍覚寺ですが、『蝉しぐれ』では龍興寺として登場します。
文四郎の父・助左衞門が、藩の世継ぎ騒動に絡んだ反逆の罪で切腹の沙汰を受けた場所として描かれています。物語のはじまりとなる重要な出来事の舞台です。 

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般若寺、着。
『凶刃 用心棒日月抄』では、実際の寺名を用いています。
TVでは『腕におぼえあり 3』として放送されていました。やむなく脱藩し、国元から送り込まれてくる刺客と対決したり、嫌疑が晴れ帰参が許されたあとも厄介な出来事で密命を受けたり再度脱藩したりと、やたら災難に遭いやすい(笑)主人公・青江又八郎が、江戸を舞台に、用心棒家業に身をやつしながら国元の様子をうかがう日々を描いた作品ですが、この国元の名は桑山藩という名でした。般若寺は、城下で斬られて横死した町人姿の旅の者の亡骸が運ばれた寺として登場します。しかし、その遺体は二日後に忽然と消え---という怪しげな事件から、物語が展開します。

071230chidoukan 商店街に出ると、庄内藩の藩校だった致道館の発祥の地碑がありました(現在の致道館は、鶴岡公園前にあります。東北地方に唯一現存するものとして、国指定史跡を受けています)。
せめてこれなりともカメラに収めようとシャッターを切った瞬間・・・手に持っていた傘が突風で吹き飛ばされ、傘がおシャカとなりました(ノ;д`)
これで事実上、この天候下での鶴岡散策は続けられなくなりました。
嵐のような雨の中、壊れた傘をだましだまし差しながら、ようやく駅まで辿り着きました。

温かく美味しい蕎麦を食べ、列車であつみ温泉まで戻りました。宿に着いたのは、まだ15時半と早い時間でしたが、ここは観念して(笑)宿近くで温泉巡りすることに。こんな日は、こんな過ごし方のほうが良いのでしょう。冷え切った体も充分温まり、疲れも洗い流し、美味しい料理に舌鼓を打ち、良き年の瀬となりました。

鶴岡を訪れたこの日の夜。
宿のTVを見ていたら、某TV局で『武士の一分』が放映されました。海坂藩を訪れた余韻に浸りながら、映画を堪能することができました。
素敵な偶然に、またこの地を訪れたいと思いました。

ということで、、、鶴岡は、リベンジ決定です(笑)

(おわり)

余談:
Uftushin鶴岡の街を歩きながら、ふと『浦和フットボール通信 vol.10(12月号)』の荒井桂先生のコラムを思い出しました。庄内藩士が、敵将だった西郷隆盛の徳を偲んで綴った『南洲翁遺訓』という本が紹介されています。戊辰戦争で降伏謝罪した庄内藩は、中央政府から国替えを命ぜられましたが、嘆願が聞き届けられて国替えは中止となり、その代わり金70万両を納めることに。藩内の人々はこぞって献金につとめ、金30万両を納めたところ、残金は免除という寛大な処置が。その影に西郷隆盛の配慮があったとのこと。
その縁からか、鶴岡と鹿児島は“兄弟都市”なのだそうです。
偶然とは言え、このコラムが掲載された『通信』が発行された月に鶴岡を訪れたことと、自分の故郷の偉人との関係を知り、不思議な縁を感じました。
上記冊子がお手元にありましたら、ご一読くださればと思います。

余談その2:
翌日の大晦日は、、、
まだご記憶に新しいかと存じますが、この暮れは、日本海側は強風で大荒れでした。
土産を買いに再度立ち寄った鶴岡駅で、見事に“足止め”を食らいました。
羽越本線は、一昨年暮れの『いなほ14号』脱線事故のため、荒天時の対応が相当慎重になっています。人の命には替えられませんので致し方なしなのですが、この日は、よりによって大晦日。何が何でも帰宅の途に着かねばならぬと、ダンナが一大決心!071231amarume
鶴岡駅から陸羽西線余目駅まで、タクシーでバキューンと移動。 ((((;゚Д゚)))
鶴岡駅から新潟方面と、鶴岡駅から秋田方面の2箇所、要するに上下線の行く手が運転見合わせとなったため、鶴岡駅は完全に「鉄道の孤島」と化していたのです。ここから脱出するには、もはや羽越本線を回避するしか無く・・・山形行きのバスという選択肢もありましたが、余目駅迂回のほうが時間が早かったため、5800円也と手痛い出費(号泣;)となりましたが、金で時間を買ったと思うことにしました。
ちなみに、余目から新庄に向かう陸羽西線沿線は深い雪で、、、最上川の雪景色が美しゅうございました。
日本海沿岸の強風と言い、内陸部の豪雪と言い、真冬の東北は侮れません。
残りの道中は、新庄から『つばさ』で大宮まで一直線・・・ダンナの“鉄分”の高さが、的確な判断を選択してくれました。感謝です。071231compus

やはり、鉄旅の必携品は『コンパス時刻表』!
これ最強
です。(笑)

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2008/01/08

奥の細道と海坂藩を訪ねて(1)

20071229atsumi1 天皇杯に関係のない年末は、ゆっくりのんびり旅に出ました(棒読み)
冬は冬らしく寒いところで温泉三昧が一番です。仕事も家事もサポート活動も御用納めまでに済ませ、12/29~31日の2泊3日の行程で山形・庄内地方へ旅しました。
少々長いので、2回に分けてご紹介させていただきます。

【あつみ温泉(あつみおんせん) 山形県鶴岡市湯温海 JR羽越本線あつみ温泉駅 徒歩約35分またはタクシー約5分 2007年12月29日 訪】

071229atsumi2このたびは、あつみ温泉をベースキャンプに、庄内藩の城下町・鶴岡を訪ねました。ちなみに、2泊にかけて逗留した宿はこちら。昭和の香りが充満する(笑)古い旅館です が、源泉掛け流しの温泉(硫酸塩泉)は上々。他の浴場も巡りましたが、ここの泉質が一番効能が高いと感じました。料理はカニと鯛メインで、豪華絢爛と言うよりは地味ながら丁寧な仕事ぶりの味。こんなに鯛を食せることも滅多にないと思えるほどいただきました(笑)。
1日目は宿に到着して、周辺の足湯(右写真)などを楽しみながら散策。
2日目、年末のため名物の朝市は今回体験できず残念。
あいにくの荒天でしたが、鶴岡まで足をのばしてみました。

【山形県鶴岡市(やまがたけん つるおかし) JR羽越本線鶴岡駅 2007年12月30日 訪】

071230tsuruoka1 鶴岡と言えば、『海坂(うなさか)藩』------。
ご存じの方も数多いと思います。鶴岡は、時代小説の名手・藤沢周平の故郷であり、彼の作品の舞台として頻繁に描かれている架空の藩=海坂藩のモデルとなっています。弊ブログを平素ご覧いただいている読者の方にはすでにご周知のことと存じますが、私は大の“読書アレルギー”、ダンナは食事をするのを忘れるくらいの“本の虫”。ダンナはほとんどの藤沢作品を読了していることにあわせ、ここ鶴岡には出張で数回訪れており、地域情報にはある程度通じていたので今回はプチガイド役。私は原作は読んでいないものの、最近の藤沢作品ブームの前から、『腕におぼえあり(用心棒日月抄)』『よろずや平四郎活人剣』『蝉しぐれ』などのTVドラマが好きでしたので、鶴岡は、藤沢作品ゆかりの地を辿りながら歩きたい土地のひとつでした。
 #そう言えば、年末までNHKで『風の果て』をやってましたね・・・
  ドラマ化では「池波正太郎のフジテレビ」「藤沢周平のNHK」といったところでしょうか。

071230tsuruoka5駅についてまず目にするものは、この『雪の降る町を』歌碑。作曲家・中山喜直が、鶴岡の雪景色や旅の思い出をメロディーにしたとのこと。毎正時には、あのお馴染みのメロディーが流れます。

 

071230tsuruoka2街では『藩札』が流通しております(笑)。
ところで。
鶴岡の街を歩いていると、いたるところで『庄内』と『荘内』の2つの表現が使い分けられていることに気付きます。
車のナンバーはじめ庄内平野など地域を指す場合は『庄内』、新聞社や銀行、荘内神社など企業や施設・団体等には『荘内』の文字がよく充てられているようです。その使い分けに関する理由や根拠は、ちょっと調べた程度では釈然としないのですが(^^;、古文書に頻繁に登場するのは『庄内』の文字のようです。参考までに、こちらをご覧くださればと思います。

071230basho1 ぶらぶらと駅前通りを歩いていると、『山王日枝神社』に到着。
境内には、松尾芭蕉がかの『奥の細道』紀行の折、出羽三山登拝後にここ鶴岡を訪れた際に詠んだ句碑がありました。

 珍しや 山を出で羽の 初茄子び

「出羽三山の下山」と「出羽国」を絶妙に懸けています。また庄内は小茄子(民田茄子)の名産地ですの071230basho2で、地方色や季節感もわずか17文字に凝縮した、誠に秀逸な一句です。
日枝神社から商店街方面に歩を進めると、『蝉しぐれ』でモチーフとされた内川(小説では“五間川”)に辿り着きます。『秘太刀馬の骨』に登場する大泉橋(小説では“千鳥橋”)のたもとに、芭蕉ゆかりの舟着き場がありました。ここから芭蕉は舟に乗り、内川~赤川~最上川と川を下り、酒田へと向かったそうです。酒田への道中、芭蕉は何を思っただろう・・・そんな想いをかきたててくれます。

071230tsuruoka3大泉橋を渡った先の商店街の歩道には、このような旧町名を表記した石碑がいくつか設置されていました。こういう細かい演出が、城下町そして時代小説のふるさととしての雰囲気づくりに一役買っています。
街並みは、現代的な建物と、懐かしい時代の建物が混在しています。同じ県内だからでしょうか、何かしら米沢を訪れた時の雰囲気に似たものを感じました。

071230tsurusonohashi

 

 

 

 

 

 

鶴ヶ岡城址(現・鶴岡公園と荘内神社)に向かう途中、再び内川を渡ります。
消防署前の鶴園橋の下に、2艘の舟が繋がれていました。『蝉しぐれ』の緊迫するシーンのひとつ、牧文四郎とふくが家老・里村の追手から逃れるために、夜陰に紛れて舟で堀(内川?)づたいに城外へ脱出する場面が自然と連想されました。果たして、この舟はどのような意図でここに係留されていたのか・・・情緒ある風景です。071230miyukibasshi
この鶴園橋を横目に眺めながら、私たちは朱色が目に鮮やかな下流側の『三雪橋』を渡りました。関ヶ原合戦後の1601年、最上義光が鶴ヶ岡城主の代に赤川・内川の河川改修に合わせて架けられた橋で、その後酒井忠勝が庄内藩主となり明治維新までの間、城の大手門に通ずる橋として機能した由緒ある橋だったそうです。現在の恒久橋に架け替えた1963年に、地元の人々が発起して朱塗りの橋になったそうです。

071230church 橋を渡ると、屋敷門の向こうに教会、、、和洋折衷の奇抜な佇まいに目を惹かれました(写真が雨に煙ってしまいました)。
明治の頃に建てられた『鶴岡カトリック教会天主堂』です(国指定重要文化財)。ロマネスク様式教会建築の傑作なのだそうですが、建築はあまり詳しくないので良くわかりません(笑)。堂内に安置されている黒い聖母マリア像は世界的にも珍しく、日本ではここでしか見られないそうです。
中を見学しようとしたのですが、雨足が強くなってきたので、先を急ぐことに。

071230tsurugaoka 鶴ヶ岡城址。現在は荘内神社と鶴岡公園となっています。鶴ヶ岡城は、古くは大宝寺城と呼ばれ、鎌倉から戦国期の長きにわたり、庄内地方を治めていた武藤氏の居城でした。戦国後期から江戸にかけての国替え等により、最上義光→酒井忠勝と当主が変遷し、以降、戊辰戦争の頃まで、庄内の中心地として、譜代の酒井氏が守り継ぎました。解体された本丸跡に荘内神社を建立したそうです。
実はもっと城めぐりと神社めぐりをしたいところだったのですが、師走のみぞれまじりの冷たく激しい風雨が、容赦なく私たちの衣服を濡らしてきたので、散策を断念。荘内神社に年末のご挨拶程度に参拝し、早々に境内を出て、天候の様子をうかがいながら、『蝉しぐれ』の映画ロケ地となった『丙申堂』へと急ぎます。

(つづく)

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2007/10/12

【AWAY紀行】まほろばを訪ねて(3)東大寺二月堂編

真夏の紀行文を、こんな秋まで引っぱってしまいました(詫;

かなり間が空いてしまいましたが、

 「大和は国のまほろば」

平城の都・奈良のトボトボ歩き紀行の第3話です。
 #(1)三条通~興福寺編はこちら、(2)東大寺大仏殿編はこちらをどうぞ。

【 2007年8月16日 11:50ごろ 大鐘(鐘楼)付近】

070816tamukeyama1

前回の“東大寺大仏殿編”につづき、今回は、東大寺境内の東方、若草山麓を訪ねます。手向山八幡宮の参道鳥居の手前から左手の坂道を登ります。

 

 

070816nigatudo1

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石段の向こうに鐘楼が見えてきました。鐘楼周辺の広場は、大仏殿の人混みと対照的に驚くほど静寂。このような静謐をかような場所にこそ求めたいものです。しばし静けさに心を委ねたのち、近くの茶店で中食。きつねうどんを注文。観光地の中心地ゆえ少々高価でしたが、期待どおりの素朴な味で満足。
茶店を出て、さらに炎天下の緩い石段を登っていきます。 

【 同日 12:20ごろ 上院(若草山麓)

070816sangatudo1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石段を登ると、空間が開けました。石段正面から最初に見えてきたのが法華堂(三月堂)、奥に二月堂、写真右にフレームアウトしていますが、三昧堂(四月堂)があります。

070816sanshigatudo

 

 

 

 

 

左写真が法華堂(三月堂)、右写真が三昧堂(四月堂)。
このあたりは東大寺の起源とされる金鐘寺があった場所とされています。金鐘寺には、8世紀半ばに羂索(けんじゃく)堂、千手堂が存在したことを示す記録があり、このうち羂索堂が現在の法華堂を指すと見られています。
法華堂(本尊は不空羂索観音)は、毎年陰暦三月に法華会が行われることから、三月堂とも呼ばれています。天平仏の宝庫として知られ、743年までには完成していたと思われています。参道から向かって左(北)側の仏像が安置されている棟が天平時代の建築で、右(南)側の礼堂部分は鎌倉時代の1199年頃に老朽化のため再建したものとのこと。
三昧堂(本尊は千手観音像)は、毎年陰暦四月に法華三昧が行われることから、四月堂とも呼ばれています。木材部分には朱塗りが施されています。撮影時に、何ぞ願い事でもあったのか、ちょうど鹿がお参りに来ておりました。
時間がいよいよ迫ってきたので、さっと見回して二月堂へと向かいます。

【 同日 12:30ごろ 二月堂】

070816nigatudo3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

070816nigatudo4陰暦二月に“お水取り”で有名な『修二会(しゅにえ)』が行われることから、二月堂と呼ばれています。中世までの戦火からは辛うじて免れてきたものの、江戸時代(1667年)の“お水取り”の最中に失火してしまい、現存するのはその2年後に再建されたものだそうです。
一般に二月堂の修二会は“お水取り”“お松明”が代名詞となっていますが、他の修二会との区別のために『東大寺修二会』(Wikipedia)と称されることもあります(他に薬師寺修二会[花会式]、新薬師寺修二会[おたいまつ]、法隆寺修二会、長谷寺修二会[だだおし]などあり)。

東大寺の『修二会』の法要は、正しくは『十一面悔過(じゅういちめんけか)』と呼ばれるそうです。本尊は大観音(おおがんのん)、小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、何人も見ることを許されない絶対秘仏とのこと。「天下泰平」「五穀豊穣」「万民快楽(ばんみんけらく)」などを願い、天下万民になり代わり懺悔(さんげ)の行を勤めるものです。前行(2月20日~28日)、本行(3月1日~14日)をあわせてほぼ1ヶ月、準備期間を加えれば3ヶ月にも及ぶ大きな法要となります(参考:東大寺HP
大仏殿では国家権力や国体維持などの独特の政治色を感じさせるものがありましたが、ここはやはり華厳宗の大本山らしい国家安寧を願う宗教色と、国家守護の寺・東大寺を感じさせてくれます。

070816nigatudo5

春寒の弥生三月花まだき
君の肩にはらり 良弁椿
ここは東大寺 足早にゆく人垣の
誰となく独白く南無観世音 折から名残り雪

二月堂と聞いて、またも思い起こされるのは、うぃあーソングライター・さだまさし大先生の名曲『修二会』。まさにここ二月堂と修二会をモチーフに男女の愛の脆さと儚(はかな)さを描いた、『まほろば』と双璧の作品です。
真夏で甚だ季節外れなのですが(笑)、この唄の世界に思いを馳せながら、静寂に佇む二月堂を訪ねることに。

070816nigatudo7君の手は既に 凍り尽くして居り
その心 ゆらり 他所にあり
もはや二月堂 天も焦げよと松明の
炎見上げつつ何故君は泣く
雪のように火の粉が降る

走る 火影 揺れる君の横顔
燃える 燃える 燃える おたいまつ燃える

070816nigatudo8 二月堂の修二会の象徴的な行である“お松明”。長さ8m、重さ80kgもの燃えさかる松明をこの舞台で振り回す勇壮な光景は、多くの日本人に知られています。本行の期間中は連日行われていますが、特に3月12日は最多の松明が使用されることと一般参詣者への香水授与(お水取り)が行われるため、大変な混雑となる様子が毎年報道されているのはご存じのとおり。752年から一度も中断されることなく連綿と続けられ、今年(2007年)が1256回目の法要となりました。
その松明を振り回す舞台からの眺望。天平の奈良へと思いが飛んでいきそうな眺めです。

070816nigatudo6過去帳に 青衣の女人の名を聴けば
僕の背に 君の香りゆらめく
ここは女人結界 君は格子の外に居り
息を殺して聴く南無観世音
こもりの僧の沓の音

ふり向けば 既に君の姿はなく
胸を打つ痛み 五体投
もはやお水取 やがて始まる達陀の
水よ清めよ 火よ焼き払えよ この罪この業(カルマ)

走る 火影 揺れる あふれる涙
燃える 燃える 燃える 松明 燃える

歌詞の中にある、ずっと以前から気になっていた“青衣(しょうえ)の女人”。
このたびの紀行文を書くに当たって、初めてこの謎を知ることに。

修二会の行法のなかで“大導師作法”というものがあり、≪神名帳奉読≫と≪過去帳奉読≫が行われます。

初夜に行われる≪神名帳奉読≫では、日本全国60余州に鎮坐する490ケ所の明神と14000余ケ所の神々の名が書かれている神名帳を読誦し、「修二会の行法を照覧あれ」と神々を呼び寄せお願いをします。
3月5日・12日に行われる≪過去帳奉読≫では、
聖武天皇からの歴代天皇、東大寺縁者、戦禍・天災に斃れた万国民の霊、現職の総理大臣以下の閣僚、最高裁の長官などの名を読み上げ、その働きが天下太平、万民豊楽をもたらすよう祈願します。
この日本最長の過去帳に連ねられた名のうち、鎌倉時代の源頼朝から18番目に当たるのが“青衣の女人”。元来無かった存在なのですが、鎌倉時代に集慶という僧が過去帳を読み上げていたところ、青い衣を着た女の幽霊が現れ、「何故我が名を読み落としたるとや」と恨めしげに言ったので、女の着衣の色からとっさに「青衣女人(しょうえのにょにん)」と読み上げたところ、微笑みながら満足げに消えていった・・・というちょっと怪談めいた話ですが、実際、東大寺の過去帳に記載されています。現在でも“青衣の女人”を読み上げる時は、声を潜めるのが慣習となっているそうです。

この話をはじめ修二会に関して、様々なサイトにも掲載されていましたが、下記サイトに詳しくありますので、参考にしていただくとわかりやすいかと思います。

 ・東大阪河内ライオンズクラブHP
 ・『奈良観光』HP:東大寺二月堂修二会(その1)
 ・     〃   :        〃       (その2)
   ※(その2)に過去帳(「青衣女人」の記載あり)の画像があります。

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二月堂回廊の脇に、御茶所があり、いわゆる「セルフ形式」でお茶が振る舞われています。冷たいお茶には麦茶もあり、酷暑の真昼に何ともありがたい限り。水が旨いためでしょう、甘露美味。しかしここは“行”を重んずる場所、使った茶碗は自分で洗って仕舞う作法となっています。こんな行儀作法は昔では当たり前のことでした・・・忘れかけている心を思い出させていただきました。

070816nigatudo10 快く冷たい麦茶を頂戴して一服ののち、階段を下り、二月堂をあとに。時間はもうすぐ13時になろうとしていました。13時半までにはJR奈良駅に戻らなければならなかったのと、あまりの暑さ(熊谷で観測史上最高気温が記録された、あの暑い日)のため、ダンナがだいぶ溶けてしまって(笑)動けなくなったので、奈良国立博物館(今回スルー)前からタクシーを拾い、急ぎ奈良駅へ。
駅付近で土産を買おうと期待していたのですが、なんと構内に土産店が無い!!!
駅前にあった奈良漬の店で、かろうじて瓜漬けを土産として購入(後日談:もちろん漬物も美味でしたが、残りの酒粕で鶏肉や牛肉を漬けてみたら2度も3度も美味!ぜひお試しあれ)。

【同日 奈良線 みやこ路快速 13:39発】

070816jrnara2 時間となり、京都行きの列車に乗車。
コンビニで仕入れた冷凍ボトルと冷房の効いた車内で息を吹き返す、炎天下徒歩夫婦。(@▽@;)
わずか3時間の奈良滞在で、時間の限り歩きましたが、時空を超えてさまざまな思いを巡らせることのできた、充実の旅となりました。
1300年の歴史が息づく街・・・わずかな時間でも日本仏教の黎明に触れることのできた驚きと喜びで、少し心豊かになれたような、そんな真夏の古都巡りでした。

(おわり)

070816kfc_2おまけ:
奈良駅すぐ近くのKFCをタクシーで通りかかった時の1ショット。

おっちゃんも、暑かったんやねぇ。。。(^ー^;

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2007/10/05

【AWAY紀行】ぶらりソウル(2)景福宮&大陸の人々

実は、前回ぶらり旅の前日に、こちらを訪れていました。
時間が前後してしまいましたが、まあそこはご愛敬ということで(^^ゞ

今回の遠征のオプショナルツアーで、仁川空港からツアーバスで護送される『うぃあー御一行様』。
このバスに乗り、ガイドさんの説明を聞くまでは、どこに連れて行かれるのかもわからない、タモリ倶楽部的“ミステリー・ツアー”状態でしたが(笑)、行き先は至ってまとも、朝鮮王朝を代表する王宮・景福宮と国立民族博物館を見学し、その後は、ちょっと怪しい魅力の南大門市場を観光しました。

【2007年9月25日 15時半ごろ 景福宮(キョンボックン) 訪】

070925seoulmap1 韓流時代劇ファンの皆さま、お待たせいたしました。(゚∀゚)凸
ソウルと言えば「ここ」、ですね。
朝鮮王朝を建国した李成桂(イ・ソンギェ)によって1395年に造営された最初の王宮です。
北方背後に北岳山、正門の光化門(復元中)から南に六曹通(現在の世宗路)が伸びており、京都や奈良と同様、王宮の北に山を背負い、地形が開けた南に大通りを配して都市計画の中心に据えています。風水思想に基づく都市建設手法は東アジアの共通項であるのだなあと、改めて感じさせてくれます。(※地図クリックで拡大します)

070925gyeonbokgungmap 創建当初は12万6千坪という広大な敷地に200棟を超える殿閣があり栄華を極めたそうです。しかしそれらも、われら日本人には少々耳の痛い話ですが、『文禄・慶長の役(1592-1598年)により焼失。その後、朝鮮時代末期の高宗時代(1868年)に再建され、330棟もの殿閣が建てられたそうですが、日本統治時代の総督府の建設時に、勤政殿などごく一部の建物だけを残して、景福宮の数多くの建築物が取り壊されたそうです。
戦後久しい1990年から本格的な復元事業が推進され、総督府の建物を撤去し、徐々に景福宮の本来の姿を取り戻しつつあるそうです。(※図クリックで拡大します)

<光化門-興礼門-勤政門-勤政殿-思政殿-康寧殿-交泰殿>

などの門・殿閣が一直線に配置されていて、宮殿の軸空間を形成しています。

070925gyeonbokgung1■興礼門(フンレムン)

光化門が復元中のため、現在、景福宮の最南端にあるのがこの門。
秋夕(韓国の旧盆)の真っ最中のため、市内は休業店舗が多いのですが、ここのような観光地は大盛況。休みを利用して訪れた国内客のみならず外国人の姿も相当多く見かけました。
ここをくぐって、勤政門-勤政殿へ向かいます。

■勤政門-勤政殿(クンジョンムン-クンジョンジョン)

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興礼門をくぐると、勤政門があり、その間が広場になっています。
お盆のお祭りで、色鮮やかな伝統的衣装を身にまとった子どもたちが踊っていました。多くの見物客に囲まれて賑わっています。晴れた秋空に、衣装の色もよく映えていました。

この勤政門の色遣い・・・最近どこかで見たような・・・と思い出していたら、腑に落ちました。日高市・高麗神社となりの聖天院にあった朝鮮半島出身者墓園にあった四阿(あずまや)です。
この地の文化を、身近に感じた瞬間でした。

勤政門をくぐり、勤政殿へ向かいます。

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勤政殿。国家的行事を執り行っていたところです。その前広場は『朝廷』と呼ばれていたとか。そこかしこに小さな石塔が置かれているのが目に付きます(お墓じゃありません/笑)。
ここで。
私は、韓流ドラマにほどんど興味はないのですが、唯一、全編観たものがあります。
それは、

 『宮廷女官 チャングムの誓い』

でした。
主人公である宮廷女官・チャングムの波瀾万丈の人生と、彼女に関わる宮廷内での人間ドラマを描いた作品でしたが、重要なシーンのひとつに、チャングムに“官位”が与えられる場面があります。これらの石塔には官位名が刻まれていて、身分階級制度の厳しい朝鮮王朝時代、臣下が集合して王に拝謁する際に、自分の官位が示された石塔の位置に控えます。当然ながら、殿閣に近い位置が最も位が高く、低くなるにつれて後ろへ配されます。
ドラマは、チャングムが医女の身分でありながらも王の主治医となり、ほぼ最前に列する栄誉を与えられたところで、クライマックスを迎えます。
やはりここでそのシーンのロケが行われたと、ガイドさんから解説がありました。

070925gyeonbokgung6070925gyeonbokgung5勤政殿の天井には、巨大な龍をメインとした彫刻が施されていました。この国特有の鮮やかな極彩色が随所に用いられ、日本の伝統建築とは異なる朝鮮古来の文化を表現しています。

また、内部には王の玉座がありました(右写真)。

次に、思政殿へと向かいます。

■思政殿(サジョンジョン)中庭

070925gyeonbokgung78

 

 

 

 

思政殿は、王の執務空間といったところ。ここを取り囲む回廊のような建物は、かつての書庫だったそうで、公文書が保管されていました。幾たびかの戦禍により、それらの貴重な文書は、日本をはじめとするアジア諸国に限らず、欧米等の国外にも持ち去られたそうで、韓国国内で現存するものは僅少とか。そのため、歴史的な研究を国内で行うのは現在でも困難な状況だということです。またも耳の痛いお話ではあります。。。
お盆のためでしょうか、美しいチマチョゴリを着た女性の姿をよく見かけました。

■慶会楼・交泰殿(キョンフェル・キョテジョン)

070925gyeonbokgung910_2

 

 

 

 

慶会楼(左写真)は王が主宰する宴会を行う高床建物で、現代風に言えば“ピロティ”構造となっています。交泰殿(右写真)は宮殿の中心にあり、中宮殿とも呼ばれていました。王妃の寝殿です。

070925gyeonbokgung11おそらく魔除けか守護神かのどちらかと思われますが、屋根瓦には、右写真のような動物様のものを模した造形物が随所に装飾されています。

時間もなくなってきたので、後宮エリアにある他の施設を駆け足で周り、国立民族博物館へと向かいます。

 

 

【同日 16時すぎ 国立民族博物館

070925folkmuseum1時間も相当おしてきたので、急いで館内を巡ります。
内部展示は、主に『韓民族生活史』『生業・工芸・衣食住』『韓国人の一生』という3部構成になっています。
館内は博物館ですので、撮影禁止となっています。

が。

昔の韓民族文化を学ぶというより、ここでは、思いがけなく現代韓国人の気質に触れることになりました(笑)。
日本人が大人しいのか遵法精神があるのかどうか、その議論は置いといて・・・。

  • 館内で、写真はバシバシ撮りまくっています。
  • 屋外での感覚と同様に、館内では携帯電話で話します。
  • 子どもたちが、元気よく走り回っては、見学順路を逆走しています。

私は、カルチャー・ショックを受けてしまいました。  ((((;゚Д゚)))
確かに、王宮を見学している時にも感じましたが、写真撮影している人の前をためらい無く横切りますし、並びの見学列にも積極的に割り込んできました。地下鉄に乗車中でも携帯電話は普通に使っていると、他のうぃあーさんからも聞きました。
ここは儒教の国だということから、かなりマナーに対しては厳しい見識を持っているかと思っていたところ、それは私の「先入観」だと気付きました。
日本人が考えるマナーと、この国の人々のマナーの尺度が違うのでしょう、きっと。
私の勝手な感想ですが、「まず、自分ありき」というか、「自己の力」が行動規範になっているような印象を受けました。どこか積極性の高さを感じます。
確かに、サッカーを観ていても、

 日本人FW:チャンスを譲り合い、結局好機を逃す(例:○ナギ)
 韓国人FW:まずは自分で機をうかがう

070925folkmuseum2なんてシーンを何回か見たことありますし(爆)。

面食らっているうちに、だんだんと陽が傾いてきました。
急ぎ博物館を出てバスに向かっていたところ、これも高麗神社で見かけた『将軍標(しょうぐんひょう:チャンスン)』がありました。ってか、こっちが本場ですね(^^;

日没になる前に、ソウルの古い下町街と呼ばれる『南大門市場』にバスで向かいます。

【同日 17:30ごろ 南大門市場

070925namdaemun 大通りの交差点、今ではロータリーとなってそびえ立っているのが有名な崇礼門(スンネムン:かつて南大門と言われていましたが、改称したそうです)。国宝第1号指定を受けているのですが、立地状態に驚いてしまいます。都の城門の一つとして建てられた、現存する朝鮮王朝の代表的な建物で、はじめは城壁がこの門につながっていたそうなのですが、1908年に門を残して撤去されたそうです。

この交差点すぐの脇道から、市場に入ります。

070925namdaemunmarket12

 

 

 

 

ここをひとことで表現するならば、“ソウルのアメ横”でしょうか。
否、アメ横に比べれば、何とも怪しいパワーとエネルギーが炸裂しています(笑)。
朝鮮王朝時代から約600年の歴史を誇る一方で、1日に数十万人が訪れて、日々人々の熱気で賑わっているそうです。この日はたまたまお盆の時期で客足こそ普段より少ないようでしたが、「何でもアリ」と言わんばかりに立ち並ぶ店の構えと、この混沌とした雰囲気が、まさに大陸的。道を歩けば、ルイ・ヴィトンのバッグが山積みされたワゴン(爆爆)や、怪しい日本語で“客引き”が積極的に攻めてきます。
ご覧ください、、、右上写真の店の、堂々たる「パチぶり」を (爆×10)。

070925namdaemunmarket3そして、やはり人目に付くところには、右写真のようなアピールが。
 #上野のアメ横に『北方領土返還』の段幕があるようなもんですね・・・(^^;

何度か客引きに連行されそうになりつつも、「今日は、市場は見るだけヨ!」とのガイドさんの先導(笑)で、駆け抜けるように、無事市場観光を終えました。
いやはや、、、たった15分程度の見学でしたが、充分に異国情緒を味わえました。

訪れた土地の『お国柄』というものを感じることは、何とも楽しいものです。これぞ旅の醍醐味でしょうか。
それほど遠くない隣の国。海を隔てて、此方は島国、彼方は大陸。
欧米ではみな似た者同士に捉えられがちな極東の国々ですが、これほど文化の多様性がちりばめられているものだと、大変勉強になりました。

次は、どの国を訪れてみましょうか。
叶うことなら、レッズと共に。

(おわり)

 

070926bike おまけ:
次の日、清渓川を散歩していた時に、私の発想を遙かに超えた、こんなものを見つけてしまいました。。。
もちろん、ナンバープレートのようなものは見当たりません。
大都会・ソウルの街のど真ん中にて。

すごい、すごすぎる  ((((;゚Д゚)))
 #ホンダVTっぽいんですが・・・

そう言えば、南大門市場には、寒い冬場の露天仕事で使う、座面を電気で温めてくれる椅子がありました。椅子に電気コードと温度調節ツマミが付いていて・・・
それって『電気椅子』???(恐;;

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2007/10/02

【AWAY紀行】ぶらりソウル(1)清渓川~韓屋の街並み

日本国内では飽きたらず、海外でも「取り憑かれたようにひたすら歩く」放浪夫婦の、韓国遠征編です。
全北現代戦の日の午前中はフリーだったので、ホテル界隈をぶらりと歩いてみました。
半ば現場視察と化した(笑)清渓川での散策にはじまり、ちらりと宗廟の入口だけ見たあとは、骨董品や工芸品などの店が建ち並ぶアンティーク街・仁寺洞を通り、韓国の伝統的家屋の街並みが残る北村韓屋村(プッチョン・ハノク・マウル)まで足を延ばした、約2時間半のソウルぶらり旅です。
文字も読めず、言葉もわからず・・・“勘”だけが頼りの散歩のはじまりはじまり(爆)

【2007年9月26日 8:30 清渓川(チョンゲチョン)】

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070926cheonggyecheon0大規模な都市河川復元整備の例として、世界的にその名が広まった清渓川(チョンゲチョン)。かつては、この川の上部には“蓋”がありました。
戦後、清渓川周辺は難民が押し寄せスラム街と化していたため、韓国政府は復興と開発のために、1958~1978年の20年間をかけて、この川を道路で“蓋”をし、さらにその上に『清渓高架道路』を整備しました(右写真:清渓川文化館発行『清渓川復元』より引用)。その後、1980年代は、清渓川一帯はソウルの中心商圏として栄えました。
しかし、川を覆った道路と高架道路を走る車により発生した排気ガスなどが原因で、重金属や有害ガスによる河川の汚染を進行させたうえに、道路構造物を腐食させ、補修では耐えられないほどの老朽化を招きました。整備されて30~40年程度しか共用されなかった道路と高架道路はやむなく取り壊されることに。これをきっかけに、これまで顧みられなかった市民生活中心のインフラ整備に関心が集まり、ソウルの都市再生と歴史復古のシンボルとして、清渓川の復元工事が実施されました。2003年7月から約2年3ヶ月をかけて全長5.8㎞にわたる工事が行われ、2005年10月に竣工しました。

070926cheonggyecheon23

 

 

 

 

左は上流端。噴水と滝が整備されています。右写真は下流の中間点付近の様子ですが、下流に向かうほど植生の着生率が増し、自然再生が進んでいました。また随所に置き石や沈下橋などの渡河構造物が整備され、市民が水辺に親しめるような工夫がなされています。
この復元整備により、清渓川はソウル市民の憩いの場として利用されるようになり、都市環境が大きく変わったと、前日ツアーガイドさんも語っていました。
1時間ほどの現場調査のようなハードな散歩を終え(笑)、宗廟方面へ向かいます。

【同日 9:30ごろ 宗廟(チョンミョ)】

070926jongmyo 残念ながら、時計を見るとそれほど時間がなかったため、門だけの撮影に。(つ;д`)
朝鮮王朝時代の歴代の王と王妃の位牌が奉られています。朝鮮王朝の最初の王宮である景福宮(キョンボックン)と同時期に建造されたとのこと。ユネスコの世界文化遺産に登録されています。見学していないため詳細はわかりませんので(笑)、興味のある方は、こちらをご覧ください。

【同日 9:50ごろ 仁寺洞(インサドン)

先を急ぎます。
前日、ガイドさんから聞いた、「景福宮近くの街並み保存地区(=北村韓屋村(プッチョン・ハノク・マウル))」に行くために、偶然ここを通りかかりました。
途中、親切なおじさまが、身振り手振りを加えて道を教えてくださっているようでしたが、現地語でまくしたてられてしまっては、さすがのダンナもフリーズ状態 ((((;゚Д゚)))。軽く「カニサムニダ」と私から御礼だけはしておいたので、国際問題への発展は避けられた模様(笑)。

070926insadong1メイン通りは、骨董店、工芸品店、茶道具屋などが建ち並び、ちょっとおしゃれでアンティークな雰囲気ですが、横町を見遣ると、なかなかの風情(右写真)。何のお店かは不明ですが、店構えからして飲食店街の模様。ソウル市民の生活風景が垣間見えます。日本と異なる雰囲気に、実はこんなところで異国情緒がたっぷり楽しめます。
なお、このエリアで販売している古美術品の中には、国外持ち出し禁止の品もあるのでご注意ください、とガイドブックに記載がありましたのでご参考までに。。。

070926insadong2

 

これは、、、“Cafe”の文字から、多分そうだと思いますが、ソウルの『マンガ喫茶』かと。
鉄腕アトム、マジンガーZ、仮面ライダー、ガンダム・・・う~ん(。。;)

 

 

【同日 10:10ごろ 北村韓屋村(プッチョン・ハノク・マウル)

070926poongmunghs 仁寺洞から大きな交差点を渡って、プンムン女子高等学校の脇道から、韓国の伝統的家屋(=韓屋(ハノク))群が保存されている北村韓屋村(プッチョン・ハノク・マウル)エリアに入ります。東は昌徳宮から西は景福宮までの、鐘路区安国洞、嘉會洞、苑西洞、齋洞、桂洞といった町が『北村(プッチョン)』と呼ばれ、約860もの甍が連なる韓国の伝統的な居住地域です。ソウルが都となって600年もの歴史とともに生きてきた、昔ながらの家屋が多く保存されています。

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女学校の裏あたり。お寺の隣は教会あり、細い横町は低い屋根、煉瓦貼りの住居がひしめき、道端に洗濯物・・・いろんな要素が狭いエリアに凝縮されていて、どことなく大陸的な混沌さとダイナミックさを感じさせてくれます。

070926hanok3当てずっぽうに先に進んで行くと、ちょっとした商店街が。日本語も併記された店もあり、飲食店が並んでいました。ここも観光スポットになっているのでしょう。
街並みもいいのですが、それよりも、頭に大きな段ボールの箱を3個も載せて、私の前を歩いていた女性が気になって(笑)。“大原女”というよりは妙に東南アジアチックで、たくましく見えました(※右写真クリックで拡大)。

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ただ何となく歩いていると、袋小路によくはまりました。道が決して直線ではないため(意図的に曲線的にしている模様)、先の見通しが利きません。
壁材は煉瓦や石積みで、木材も何か塗料のようなものが塗布されていて、日本の住居建築と風合いが異なります。日本人の目からすれば蔵造りのように重厚な印象を受けます。
また、寺院のように屋根の形が反っているのがどことなく唐風(韓風、と言っていいのかどうか?)で、これも日本の家屋との相違点でしょうか。

11時過ぎにはホテルに帰りたかったので、ざっと見回った程度で帰路に着きました。
駆け足に近いスピードでの、この日のぶらり散歩でしたが、短い時間でも韓国の生活・文化の一端に触れることができ、非常に興味深く見学できました。
やはり、訪れた街を知るためには、歩くことが基本ですね。

参考までに、今回のぶらりルートを下図に示しました。

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(※クリックで拡大します)

次回は、この散歩の前日に訪れた、朝鮮王朝最初の王宮・景福宮(キョンボックン)をご紹介いたしましょう。

(つづく予定/(笑))

 

追記:
070926apartガイドさん曰く、
「現代のほとんどの韓国人は、アパート・マンション等の集合住宅に住んでいる」
とのことでした(7~8割くらい、という高い率で)。
写真は、ソウルから全州に向かう高速道路の車中から撮ったものですが、ソウル以外の都市でもこのような高層アパート・マンションが、“雨後の竹の子”のように林立しています。地震の少ない韓国ならではのスレンダーな構造です。
時代が変われば、ライフスタイルも変わる、、、という典型例でしょうか。
隔世の感がありますね。

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2007/09/12

【AWAY紀行】まほろばを訪ねて(2)東大寺大仏殿編

ちょっと間が空きましたが、

 「大和は国のまほろば」

平城の都・奈良のトボトボ歩き紀行の第2話です。

前回の“興福寺編”につづき、今回は、この国の歴史を語るうえで欠かすことのできない、『東大寺』を駆け足で訪ねる旅です。
「東大寺なら修学旅行で行ったことあるよ」と申される方が多かろうかと思いますが、私が通っていた高校には修学旅行というものが無かったので(昔、不祥事があったらしい)、この歳で、このたびが初めての東大寺参詣となりました。

(前回のお話は、こちら

070816toudaiji1 飛火野の入口を左折し、真っ直ぐに北上すること数分、門前の仲見世に辿り着きます。その視線の先には、東大寺南大門が。
すると。
奈良公園名物の“鹿”の存在が、私たちを苦しめはじめました。
わが庭とばかりに悠々と歩く鹿を「見るだけ」でしたら別に問題はないのですが、いわゆる「フンの臭い」が、たぎった空気と混じり合って、猛烈に襲いかかってきたのです。写真でお伝えできないのは、皆さまにとっての幸い(笑)・・・真夏の真昼の奈良公園には、そんな思いがけない試練が待っていたのでした(^^;
フンの臭いを払いのけるように、先へと進みます。(@◇@;)ゼーゼー

【 2007年8月16日 11:20ごろ 東大寺南大門】

070816toudaiji2当然のことながら、『古都奈良の文化財』として、興福寺などと共に世界遺産に登録されています。東大寺は、聖武天皇の発願により創建さた金鐘山寺(きんしょうせんじ)を起源としています(728年)。『国分寺・国分尼寺建立の詔』(741年)の翌年に金鐘山寺は大和国国分寺となり、その後『盧舎那大仏造顕の詔』(743年)を発令し、当時の都・紫香楽宮~難波宮から再遷都した聖武天皇は、この地で本格的な大仏造立を開始(747年)しました。その頃から、総国分寺“東大寺”の名が使われるようにな070816toudaiji3ったそうです。開山は華厳宗の良弁(ろうべん)僧正。 日本史の教科書には必ず載っている、現代では到底成し得ない壮大な国家プロジェクトの舞台となったことで知られている、あまりにも有名な寺院です。
詳細については、私がどうこう説明するより、下記サイトをご参照くださればと思います。
 ・東大寺HP
 ・東大寺(Wikipedia)

070816nandaimon 東大寺南大門。
創建当時のものは災害損失し、現存する門は鎌倉時代(1199年)に復興されたもの。中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様・てんじくよう、ともいう)を採用した建築として著名な建造物です。長年の風雪に耐え、かなりの傷み具合でしたが、かえって悠久の時の長さ、歴史の重みを語りかけられる思いがしました。『大華厳寺』の銘板が掲げられています。

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南大門と言えば、金剛力士像。世界最大の木造彫像として国宝指定されています。
人間というものは、“本物”を目の当たりにすると、頭の中が空っぽになってしまうのでしょうか・・・気が付いたら、口をポカンと開けて圧倒されて突っ立っている自分がそこにいました。
鎌倉時代の高名な仏師である、運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が制作に当たりましたが、平成の解体修理の際、像内に納められていた文書から、彼らが小仏師多数を率いてわずか70日程度で造立したものであることが裏付けられ、運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられているそうです(以上、Wikipedia等を参考にしましたが、この話は以前TVで見た記憶があります)。
なお、右に吽形、左に阿形を配していますが、これは一般的な安置方法とは逆なのだそうです。
檜の寄木造り、高さ約840cm(左写真の下に写っている人物と比べればわかりやすいです)、重さ約6tの巨像・・・800年以上も前の技術の高さと確かさ、圧巻です。

【 2007年8月16日 11:30ごろ 東大寺金堂(大仏殿)】

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070816daibutuden5 私も、割といろいろな寺社巡りをしているほうですが、見た瞬間、あまりの迫力に呆然と脱力してしまいました。広大なる敷地に堂々とそびえる“天平の甍”。 
何と言いますか・・・宗教的な迫力と言うよりは、千年以上も昔の国家権力の強大さをまざまざと感じさせられました。政教一致の国家プロジェクトとして、前述の『国分寺・国分尼寺建立の詔』(741年)と『盧舎那大仏造顕の詔』(743年)を発令し、あまたの国費と人材が投入された大仏殿の姿は、当時頻発した社070816daibutuden2会不安を払うための国家安寧と国体維持の象徴として、現代にもその威厳を放っているように見えました。しかし大仏造立後の国政は、聖武天皇の願いとはかけ離れて財政逼迫し、民衆は疲弊してしまうという現実に見舞われてしまいます。。。

東大寺盧舎那仏・・・いわゆる『奈良の大仏さま』は、大仏殿と共に2度の戦火にあっており、それに加えて補修も多く行われていることから、台座、腹、指の一部などごく一部に当時の原型を留めているそうです。江戸時代に再建された大仏さまと大仏殿が現存のもので、大仏殿は創建当時の3分の2程度に縮小復元されたということですから、創建当時の規模に思いを馳せれば、いかに国家の命運をかけた壮大な国家事業であったかが伺えます。

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余計なこととは思いつつ(笑)、大仏さまの後ろ姿をおさめさせていただきました。
随分と「絶壁」です、って罰当たりが・・・金色の光背(後光)に補強材が施されていました。

 

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大仏殿の四方には、四天王立像が配されていたそうなのですが、広目天像、多聞天像については、頭部だけが残されていました。
拝観したときが真っ昼間だったので面と向かって拝めましたが、真夜中にお会いするのは・・・ちと勘弁して欲しいものです(汗;

 

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大仏殿にて、お守りを購入。
左はヘマタイト製念珠。磁気入り(笑)。虎目石も配されています。ヘマタイトは「勇気と自信、闘いの守り石」と覚えがあったので、即購入(“磁気入り”も動機ですが)。
右は“勝守”。条件反射的に手が出たのですが、赤い袋が無かったのが至極残念!(笑)。
購入後、このお守りで3連勝しましたが(以下省略)。

ゆっくりと足を止めて拝観したいところではありましたが、時間は容赦なく過ぎていきます。

名残惜しくも早々に切り上げ、『修二会』で知られる二月堂へと歩を進めます。

(つづく)

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