街道をゆく

2009/10/08

中山道中膝栗毛@いよいよ最終章

昨年1月、日本橋から歩き始めた中山道の旅も、ついに残り五十数㎞となりました。

20090921minoohmi

9月の連休、等々力での勝利を見届けた翌日、加納宿(岐阜市)へと向かい、そこからとぼとぼ歩いて西進、木曽三川を越え、関ヶ原を通り、ついに美濃国から近江国へと入りました(この溝の部分が国境です)。
現在、愛知川宿(滋賀県愛荘町)まで歩いています。

今週末の連休で、長かった中山道の旅に終止符を打ちます。
終点である京・三条大橋を目指して、残りの道程を一歩一歩踏みしめて参りたいと思います。

途中の道中記がまだ埼玉県内までしかご報告してないのに、旅の終わりを予告することとなり甚だ遺憾ではございますが(笑)、無事に三条大橋に到着いたしましたら、簡単にでもご報告させていただだきます。
全国約十数名のこの道中記の読者の皆さま、どうぞお楽しみに。

松本へ参戦されるサポの皆さま、わが家の分までサポートをお願いいたしますm(_ _)m
必勝を祈願して、歩かせていただきます。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009/01/28

中山道中膝栗毛@上尾宿~熊谷宿

この宿間を歩いてからもう1年が過ぎようとしています。
同じ季節が来て、「あっ!」と昨年を思い出した次第です(大汗;
せっかく歩いたのですから、亀の歩みの筆の遅さでも記録を残しておきたいと思います。
1年が経過して古いネタとなりましたが、前回(『与野~大宮宿~上尾宿』編)のつづきを書き記したいと思います。
このたびは行程30㎞近く、初めての長道中です。

【5宿目:上尾宿(あげおじゅく) 埼玉県上尾市 2008年2月2日 AM8:50ごろ 出発】
■天気(熊谷):薄曇
 最高気温:6.8℃ 平均風速:1.9m/s080202ageo1

前回の道中の終点だった、JR上尾駅前の県道164号線、まるひろ百貨店前の交差点からスタート。駅から桶川方面には、かつての宿場風情らしきものはほとんど残されておらず、時折思い出したように現れる“中山道”の道標と案内板だけが、かろうじてこの道の意味を示してくれていました。駅前の商店街のはずれにさしかかったところでは、延享年間 (1740年代)に建立された庚申塔に遭遇。郵便ポストと並立されている様子に隔世の感が漂います。
080202ageo2変化のない道をぶらぶらと上尾駅から小一時間も歩かないうちに桶川市の市境を通過。距離にして4㎞足らずですから、まぁそんなもんです。昔で言えば34丁(3.67㎞)だったそうですが、これは中山道では塩名田宿~八幡宿(27丁:2.91㎞)、板鼻宿~安中宿(30丁:3.24㎞)、洗馬宿~本山宿(30丁:3.24㎞)、八幡宿~望月宿(32丁:3.45㎞)につづき、5番目に短い宿間距離なのだとか。

【6宿目:桶川宿(おけがわじゅく) 埼玉県桶川市 2008年2月2日 PM9:45ごろ 訪】
■本陣1、脇本陣2、旅籠36軒(天保14年記録より)

080202okegawa2

『立花町』バス停の木戸跡を過ぎてほどなく、往時を彷彿とさせる『武村旅館』に出会いました。日本橋からの道中で初めて出会った宿場関係の保存建物です。案内板を読むと、幕末の和宮降嫁の時代には、紙屋半次郎という人物が旅籠を営んでいたとのことで、当時のままの間取りが今も残されている貴重な建物です。
080202okegawa3

080202okegawa4 JR桶川駅を過ぎたところにも、古い建物がいくつか残されており、本陣跡(右写真)の門構えなどにも雰囲気が守られていました。ここは和宮の宿泊所にもなったところですが、現在敷地には明治天皇の行在所跡の石碑が建てられ、奥には以前の建物はなく一般住宅となっていました。
あまり知られていませんが、桶川宿には穀物問屋が多くあったそうで、さらには『桶川臙脂(えんじ)』と呼ばれる紅花栽培も盛んであったことから、上尾宿に近いながらも賑わいのある宿場だったそうです。その縁で、現在紅花は桶川市の花に制定されており、かつて宿場に繁栄をもたらしてくれた花の歴史を現代に伝えてくれています。
なお、中山道をはさんで本陣の向かい側には、休憩所を兼ねた観光案内所がありますので、お時間のある方は立ち寄られてみてはいかがでしょう。

080202kitamoto1 桶川宿を過ぎるとすぐに北本に入ります。
このあたり、宅地の区画の広大さに驚かされます。田舎と言って片付けるには広すぎて、そしてお屋敷のような立派な家構えが目を引きます。長年の風雪に耐えた巨大な防風林も多くみかけられ、この土地の裕福さが伝わってくるようです。
県道164号線を北本駅方面に進むと、『本宿』交差点に、“北本の 080202kitamoto2歴史”という案内板がありました。江戸時代初期はこの地が『本鴻巣村』という宿場であったこと、中山道の整備が進むと現在の鴻巣の地に宿場が移され、ここは“立場”(人馬の中継・休憩地点)のみとなったこと、その後この地が『本宿』と呼ばれるようになったことが『北本』の名の由来となったこと、などが書かれており、その傍らには“中山道北本宿”の碑が建っていました。現在の鴻巣宿への移転説は定かではありませんが、家康公の鷹狩り御殿が現在の鴻巣にあったためではないかとの説が有力視されています。080202kounosu1

30分ほど歩くと、鴻巣市に入ります。
ほどなく、『人形町』の地名が目に入り、街道沿いには多くの人形店が軒を連ねています。
鴻巣は、岩槻とならび人形工芸でその名を全国に知られています。その由来は、京都伏見の人形師が住み着いたという説と、日光東照宮修繕の折に人形師が多く住み着いたという説があるようです。

【7宿目:鴻巣宿(こうのすじゅく) 埼玉県鴻巣市 2008年2月2日 PM0:00ごろ 訪】
■本陣1、脇本陣1、旅籠58軒(天保14年記録より)

080202kounosu3記録にある旅籠の数の多さに驚かされますが、鴻巣と熊谷の宿間が四里六丁(約16㎞)と長かったため宿泊する旅人が多く、旅籠が栄えたようです。県道164号線沿いには、その名残か古い建物が点在していました。
『鴻巣駅入口』交差点の近くに本陣跡(右写真)があり、碑が建っています。この交差点付近が、鴻巣宿で一番賑わっていたとのこと。

『駅入口』交差点を渡ってほどなく、老舗の漬物屋『つけしん』 さんの店の前を通ったところ、驚きました。店内には、確かに漬物が並べられているのですが、とても漬物には似つかわしくないショーケースが一緒にあったので、思わず足を止めたのです。

080202kounosu4

その正体は・・・
以前、こちらのエントリ で話題になった『こうのすコロッケ』が、ここで製造・販売されていたのです。こんな巡り合わせを逃す手はないと、迷わず店内に。ショーケース内のコロッケはほぼ売り尽くされていたため、「こうのすコロッケ」と「すまいるメンチ」を各1個ずつ注文し、揚げあがるのを待ってアツアツを買い込み、近所の鴻神社に滑り込むように行き、いざ実食。
もうこれは・・・何とも滋味深く・・・説明できないので食べてみてください(ノ;д`)
また買いに行こうかと途中まで後戻りしたほどの美味しさでした。道中旅をしていなければ、きっと追加を買いに行ったことでしょう。
以前、このコロッケを扱っていた肉屋さんが都合により閉店したのですが、その味を惜しむ声が多かったため、『つけしん』さんがレシピと製法を引き継いだとのこと。すべて地元で仕入れた食材を使用した自信作だけのことはありました。後日、買い求めに行ったことは、言うまでもありません。

080202kounosu5 さて、コロッケ&メンチに後ろ髪を引かれる思いで(ノ;д`)、歩を進めます。
宿はずれの木戸があったという『加美』交差点で、長く付き合ってきた県道164号線に別れを告げ、Y字の分岐を左手方向に、県道365号線を吹上方面へと向かいます。
実は、ここから熊谷堤を抜け熊谷宿へと至る十数㎞の行程が、今回の難関だったのです。

080202kounosu6 多くの庚申塔などの石仏が、かつての街道筋の面影を見せてくれますが、途中、箕田(みだ)源氏(武蔵武士の元祖)のルーツとされる源宛(みなもとのあつる)や、その子孫で羅生門の鬼退治伝説のある渡辺綱(わたなべのつな)が祀られた氷川八幡神社があった他はこれと言った見所もなく、黙々と歩く修行が続きます。

080202kounosu7 箕田追分。右手は行田と忍(おし)方面、左は日光・館林方面への分岐点として往時は賑わっていたそうです。案内板には箕田源氏ゆかりの地であることや、かつての様子を表現した絵図などが掲示してありました。

粛々と吹上方面に歩むと、県道365号線は『前砂』交差点を右手に進みます。ほどなくJR吹上駅手前で高崎線を横断、中山道は踏切を渡ってすぐ、線路とNTTの間の細道を抜けていきます。その先で 久々に国道17号線に出会いました。しかしその再会も束の間、吹上駅前を通り、ほんの数百メートル進んだのちに、『吹上本町』交差点で左折、再び国道17号線に別れを告げます。
・・・・・・と、ここまでのわずか1㎞くらいの道程で、面白い道標を見かけました。

Annai_fukiage1

すべて手書き。テープやシールを貼った上から書き込まれているものはまだいいのですが、電柱に直書きしているものは、何と申し上げて良いのやら(笑)。方法論はともかく、丁寧に道案内をしてあげたいとの地元の人々の温かさが伝わってくるような、微笑ましい風景です(^^;。
080202fukiage1 道標に従って吹上市街を旧道沿いに進むと、『中山道 間(あい)の宿』の碑と案内板がありました。鴻巣宿と熊谷宿の宿間が長かったため、間の宿や立場が吹上にあったのもうなずけます。名物は足袋だったそうで、その足袋は、一大生産地であった隣の行田から運ばれて商われていたとのこと。荒川のウナギも名物だったとか。英泉が描いた『鴻巣宿』は、ここ吹上からの富士を描いたものだそうです(『岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望』)
中山道は、案内板の後方にある跨線橋を渡って続いていきます。

黙々と、ひたすらに荒川方面を目指して歩く道中が続きます。
何の変哲もない道中、心を和ませてくれたのは、ここでも個性的だった“道標”たちでした。

Annai_fukiage

このあたり住宅地ということもあって、「車に注意」との注意書きから「トイレ」のご丁寧な案内まで、手作り感たっぷり(笑)。堤までの道程も説明付で図解。堤の上の標識裏まで活用する徹底ぶりに頭が下がる思いがしました。正直この道案内には助けられましたので、鴻巣市には、ぜひ道標整備予算を確保して欲しいものです。

080202fukiage2 『権八のものいひ地蔵』から堤防を登ると、荒川の水面すら見えないほど広大な河川敷が眼前に拡がります。ここ熊谷堤は殺風景で単調な景色が延々と展開しているのみなのですが、「ああ、昔はこんな風景が多かったんだ」と、不思議とこの荒涼感に往時が偲ばれる思いがしました。途中、昭和22年のカスリーン台風で堤防が決壊したことを記す碑も建立されていました。
彼岸遠くに傾く陽を眺めながら、日没が近づいてきたことを感じました。すでに時刻は午後4:30。こんなところで真っ暗になられてはたまりません。昔も今も、この堤を通るのは日中に限ります。急ぎ歩を進めます。

080202kuge1 3㎞ほど堤を歩いたところで、街道は堤防を降りて久下(くげ)の集落に。重厚な蔵造りの家並みがいくつか残っており、ここが荒川の堤から続く街道筋だったことが見て取れます。旧道は右写真の奥にある地蔵尊の脇を通っていたそうですが、今は消失しているので、道を直進し、再び堤の上に登っていきます。

堤を少し歩いて、ほどなくして堤を降りると再び集落が見えてきま080202kumagaya1 す。集落の入口には『みかりや』という茶屋の跡(右写真の角地)がありました。当時、「しがらきごぼうに久下ゆべし」ともてはやされるほど、ここの茶屋では柚餅子(ゆべし)が名物で賑わっていたそうです。また、忍藩の殿様が鷹狩りに訪れるとこの茶屋で休息したため、“御狩屋(みかりや)”の名がついたとのこと。
案内看板を読んでいる間に、夜の帳が加速して降りて来ました。歩を進めるごとに暗くなっていきます。写真を撮るのも厳しい状態に。

熊谷堤を歩く頃から、大腿部の裏側にピリピリと痛みが襲ってきていたのですが、すっかり陽が落ちた頃には、まるで肉離れでも起こしたような激しい痛みとなりました。先を急ぎたいのに大幅にペースダウン。慣れない徒歩旅に今度は足裏や足指まで痛み出す始末。薄暗闇の中、痛みに落ち込みながらうつむき加減に歩いていると、そんな私を励ますかのような看板が目に飛び込んできました。
080202kumagaya2 『元荒川 ムサシトミヨ 生息地』
トゲウオ科トミヨ属の魚で、世界でもここ元荒川にしか生息していない絶滅危惧種の生息地。いつか訪れたいと思っていたのですが、この街道筋にあったとは望外の喜びでした。案内板を読むと、埼玉県の魚に制定されたのと、県の天然記念物に指定されたのが平成3年(1991年)と遅かったのが悔やまれますが、このわずかな生息エリアが今後も末永く守られることを願って止みません。080202kumagaya3

八丁の一里塚を過ぎて、熊谷の街の灯が少しずつ近づいて来ました。JR熊谷駅構内に間近な『第六中山道踏切』を渡り、国道17号線方面へ。今回の旅のゴール、熊谷宿はまもなくです。

【8宿目:熊谷宿(くまがやじゅく) 埼玉県熊谷市 2008年2月2日 PM6:00ごろ 着】
■本陣2、脇本陣1、旅籠19軒(天保10年記録より)

080202kumagaya4 国道17号線に入ると、一気に交通量、人通り、街の灯りが増え、今までの江戸の空間からタイムスリップして現世に戻ってきた気分に(笑)。いやはや、熊谷の街は都会です。
駅前の交差点からJR熊谷駅に辿り着いたのが、ちょうど午後6:00。休憩を除いて約8時間、約30㎞の道中でした。
これだけ歩けば、いろんなものに出逢えました。特に『こうのすコロッケ』と『ムサシトミヨ』の生息地に出逢えたことは大きな収穫でした。

初めての長距離行脚に頭も体も疲れ果て、高崎線のベンチシートに埋もれるように座り込んでしまいました。あんなに苦労して歩いた距離も、電車に乗ってしまえばほんの30分程度とはまさに隔世の感、茫然。しかしそんな呆気にとられた心地も、電車の揺れがゆりかご代わりとなって遠のいて、、、いつの間にかウトウトと、でした。

■2008年2月2日(土) 上尾宿~熊谷宿全行程
 ・距離:28.0㎞ 所要時間:8時間10分(うち、1時間程度休憩)
 ・全行程ルートマップは、
こちら
  全行程マップ右の『ルート再生』ボタンを押すと、ルートを「小僧」さんが一生懸命走ってくれます。
  ご自分の体重・年齢を入力すると、同行程の消費カロリーを計算してくれます。
  お試しください。

(次回:『熊谷宿~本庄宿』編につづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/11

彷徨う女心と秋の連戦へ向けて

お久しゅうございます。
随分と留守をしてしまいました・・・
夏の終わりの海を見に行っていたのでもなく、読者の皆さまの気を惹くために雲隠れしていたのでもなく、病で床に伏せっていたのでもありません。もしや、もうこの世にはいないのではなどと思われたかも知れませんが、他人様のブログのコメント欄にゲリラ的に出没しておりましたので、そんなこともございませんでした。

ちょっと、今の生活から離れてみたかっただけなのです。
来るべき連戦に備えて、資金稼ぎと休日取得のために血眼で仕事をしていただけ、だなんて、カッコ悪くて書けないじゃないですか。

表面上、快勝に見えた磐田戦での課題は、次節・東京V戦でその馬脚を現しました。
悶々とした心を抱えたまま、、、しかしこのままではいけないと、サポとして私にできることを考えた半月余り。

浦和レッズのチーム状態の向上と、Jリーグ&ACL優勝の祈願を込めて、、、

080824shichigasyuku1

080824shichigasyuku2

土砂降りの中、そばの花咲くみちのくの道を歩いたり、はたまた、、、

080831wadatouge1

080831wadatouge2

京へと向かう道の途中、標高1500mの難所の峠を越えるなどして、ひたすら必勝祈願の行脚修行を勤めて参りました。
少しでも、私の切なる想いが天に届くことを願って止みません。
 
クラブにも届くかどうか・・・(;´д`)トホホ…

ということで、私もぼちぼち「日常」に戻ります。

さあ、秋の連戦が始まります。皆さまもしっかり充電されましたでしょうか。
大分戦の後には、中東3連戦(アルカディシア→アルディージャ→アルカディシア)もすぐ控え厳しい闘いが続きますが、力を合わせて乗り切っていきましょう。

 

余談:
興味のある方は、下記↓のクイズにトライしてみてください。

続きを読む "彷徨う女心と秋の連戦へ向けて"

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/08/15

中山道中膝栗毛@与野~大宮宿~上尾宿

ずいぶんと間が空いてしまいました・・・(`・ω・´)
真冬の話を真夏に書いて涼んだ気分になっています(汗;
現時点では、とうに碓氷峠を越え信濃国・岩村田宿(長野県佐久市)まで足を延ばしておりますが、道中記としてはググッと時を遡り、前回(『蕨宿~浦和宿~与野』編)のつづきを書き記したいと思います。

【JR与野駅(じぇいあーる よのえき) さいたま市浦和区 2008年1月27日 AM11:50】
■天気(東京):晴れ 最高気温:7.0℃ 平均風速:3.8m/s

ついに、「この先」を歩くことに。
080127yono1 前日に日本橋から蕨宿まで歩いたというのに、性懲りもなく歩きます。これから始まる長い旅への覚悟も全然無しに(笑)。
さすがに前日の疲れがあったのか、朝寝坊。昼前に天気の良さだけに誘われて、思いつきでのこの日の膝栗毛。手頃に距離を稼ごうと、上尾宿を目指すことに。
与野駅東口の中山道には、ご存じの方も多いでしょうが、写真のような立派なケヤキの大木があります。往時を偲べる佇まいです。

080127yono2 線路越しに、さいたま新都心の高層ビル群が見えてきたところで、橋の工事現場が見えてきます。かれこれ2年ほど前から実施されている大原橋の架替工事(当サイトでもご紹介しております)ですが、まだやっていました。実はこの橋の下付近には、かつて川口にある赤山城への交通を支えた『赤山街道』が通っていたようです。現在は鉄路で分断されていますが、線路の東西には現在でも『赤山通り』が残っています(数年前、赤山街道は実際巡りました)。工事完了が平成21年3月末だそうで・・・もう少し我慢が必要なようです。

080127yono3 三菱マテリアル前のケヤキ並木に何となく街道風情を掻き立てられますが、これは昭和42年の埼玉国体の際に植樹されたものとのこと。40年も経過すればこのような立派な街路樹となるものだと関心します。さて、この並木が途絶えたところに高台橋という小さな橋があり、そのたもとに小さな祠が建っています。地蔵菩薩像と不動明王像が祀られており、地蔵菩薩像は、叶わぬ恋に世を儚んで身を投げた女郎の供養のため、不動明王像はかつてこの地が刑場であったため、その供養塔と伝えられています。普段良く通る場所ですが、意外に知られていない話を学ばせてもらえるのも、街道巡りの奥深さです。

080127yono4ほどなく『さいたま新都心駅』に到着。この日、さいたまスーパーアリーナで『KICK OFF 2008』なるイベントをやっていましたが、あれこれ逡巡のうえ、パス。ついでに、かねてより訪れたかった蕎麦屋に行くことに。『高山村大使館 日曜庵』という屋号で、一見何の店かわかりにくいですが、概要は、蕎麦愛好家集団が設立したNPO法人が経営する、群馬県高山村のアンテナショップも兼ねた日曜日限定開店の蕎麦屋です(蕎麦粉は北海道・幌加内産等を使用しているようですが)。活動の中心団体は『さいたま蕎麦打ち倶楽部』で、ここを蕎麦打ちの“道場”にしているとか。毎年秋の『中央区民まつり』の出店を楽しみにしていますが、良い機会ですので“本丸”に乗り込んでみることに。ダンナは鴨もり(800円)、私はもりそば(500円)を注文(日曜庵HP写真参照)。丁寧に作られた蕎麦とつゆの味は実に素直。素朴さが舌に優しい逸品ですので、お近くにお越しの際はご賞味あれ。

080127yono5腹ごしらえを済まし、出発。駅近くの子豚マークでお馴染みのラーメン屋のメニュー板(写真)を見てニヤリ。そして氷川参道の入口を横目にてくてく北上。ほどなく吉敷町の交差点に差し掛かればそこは大宮宿の入口です。

 

【4宿目:大宮宿(おおみやじゅく) 埼玉県さいたま市 2008年1月27日 PM0:40ごろ 訪】
■本陣1、脇本陣9、旅籠25軒(天保14年記録より)

080127ohmiya1埼玉県最大の商都・大宮。本陣1軒、旅籠25軒とそれほど大きくない宿場でありながら、脇本陣が9軒もあったのは、何らかの理由で昔から身分の高い旅人に好まれていた場所なのでしょう。さて、現代。これだけ商業施設が集積していたら、往時の中山道の風情を求める方が無理、と言うものなのでしょうか・・・浦和以上に、いえ、もしかしたら中山道の宿場の中では最も往時の面影が木っ端微塵に砕かれた街なのでは、と思われます。ここが旧街道の宿場町だということを彷彿させてくれるものは、残念ながらほぼ皆無。強いて言えば、建物の区画が道に面して間口が狭080127ohmiya2いことくらいでしょうか。当世の街道筋には“リス”が生息している模様。沿道は心なしかオレンジ色に支配されています。首都圏のどこにでもある駅周辺の繁華街を淡々と歩いていくと、大栄橋のたもとを過ぎたあたりから「それらしい」立派な樹木が見受けられるようになります。
JR宇都宮線、東武野田線のガード(道路脇に歩道あり)をくぐって、さらに北進します。

080127ohmiya3大宮郵便局近くのCOCO'Sのところに、追分を示す道標がありました。
幕末の安政7年(1860年)に建てられたこの石碑には、「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道」と記され、中山道から西へ分岐する道の存在と行き先を示しています。COCO'Sと隣の魚屋さんの間に古道があって、与野方面に続いていたとのこと。このような道標は、東京や埼玉の街道沿いで、庚申塔と兼ねた形でよく見かけます。当時の関東では「大山詣で(伊勢原市)」や「御嶽山詣で(青梅市)」が盛んだったことを、今に伝えてくれています。なお、「引又=志木」のことだそうです(以上、現地案内板参照)。

080127ohmiya4 プラザノースとステラタウンという新興行政&商業地を右手に見ながら、県道164号線をさらに北上していくと、新幹線の高架手前に祠が。『猿田彦大神』と記された祠には、元禄10年の年号が刻まれた庚申塔が祀られていました。新しく拓けた街、新幹線、そして庚申塔・・・と時代のギャップを感じながら古に思いを馳せるのも街道巡りの楽しみのひとつ。よう やく中山道の雰囲気がこのあたりから感じられるようになりました。時代の波に呑まれることなく、大切に保存されている地元の方々に敬意を表します。

080127ohmiya5新幹線とニューシャトルを頭上に、そしてすぐ国道17号を地上で横切り、県道164号線をひたすら上尾方面に直進します。
国道17号線=中山道と捉えられがちですが、実は埼玉県内では東京都内ほど重複区間は長くありません。浦和の六辻交差点で交差して以来の国道17号でしたが、ここで一瞬出会ってのち、熊谷まで、またもしばしのお別れです。

080127ohmiya6中山道である県道164号線を上尾方面に向かいます。宮原あたりまで来ると、古刹があったり、大木があったり、庚申塔が多く残されていたりと、街道風情がぐっと増えてきます。ようやく歩く目的を思い出した気分になりました(笑)。ここは英泉が『中山道六十九次』の上尾宿で描いた加茂神社。さすがに上尾駅とさいたま市内を繋ぐ道路ですので、平成の世では人から車に往来物が変わり交通量多し。気をつけて道中を歩きます。

080127ageo1上尾市に入ったばかりのところ、馬喰新田バス停横に、立派な不動尊があります(写真の空き地左の石碑)。寛政12年(1800年)の刻印がありました。これは川越方面に向かう道標も兼ねていたようです。この少し先、下上尾バス停を過ぎたあたりが、上尾宿の入口だったと言われています。

080127ageo3当世、上尾の世情が1枚のポスターで表現されていました。
市民1人あたりの歳出額が全国782市の中で781番だからといって、行政サービスが劣悪なのかどうかは甚だ疑問ですし(人口が多ければ低くなる数字です)、住みやすさ安心度の順位を算出した基準を示さずに順位が低いよと言う数字だけ表示するのも眉唾もののような・・・
確かこれ、市長選告示前の選挙対策用ポスターみたいでした。地元ではバレバレなのでしょうが、候補者の名前が標記されて無いところがツボですね(笑)。

【5宿目:上尾宿(あげおじゅく) 埼玉県上尾市 2008年1月27日 PM3:30ごろ 訪】
■本陣1、脇本陣3、旅籠41軒(天保14年記録より)

080127ageo4現在の上尾駅前交差点周辺が、上尾宿の中心地となっていたようです。旅籠41軒という規模は大宮宿を大きく上回っています。当時は鉄製の常夜灯もあったそうで、裕福な宿場町であったことが偲ばれます。上尾まるひろ百貨店隣りにある、氷川鍬神社が宿場の中心だったようで、まるひろ百貨店付近が脇本陣、氷川鍬神社前を中山道をはさんだ正面に本陣があったそうです。
080127ageo5そこで、本陣があったという対面側にファインダーをふってみると・・・右写真のとおり、昔日の面影は残念ながら残されておりませんでした(つ;д`)
当時は、近くに岩槻道や川越道も通っていたため、いわゆる“飯盛り女”も多く、かなり人気があり繁盛した宿場町だったようです。

080127ageo6さすがに真冬ですので、午後3:30頃とはいえ陽の傾きは早いもの。もともと散歩がてらに歩き出しましたので、JR上尾駅前交差点で、この日の膝栗毛は終了。

何の気無しに中山道北上を始めましたが、この先、体力的にも経済的にも大変な思いをすることになろうとは、、、
たぶん、そんなことを最初から気付いていたら、歩き始めなかったでしょう、きっと。
人生、得てしてこんなもんでしょうな(笑)

 

■2008年1月27日(日) 与野駅~大宮宿~上尾宿全行程
 ・距離:11.1㎞ 所要時間:3時間40分(うち、30分程度休憩)
 ・全行程ルートマップは、
こちら
  全行程マップ右の『ルート再生』ボタンを押すと、ルートを「小僧」さんが一生懸命走ってくれます。
  ご自分の体重・年齢を入力すると、同行程の消費カロリーを計算してくれます。
  お試しください。

(次回:『上尾宿~熊谷宿』編につづく)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/06/07

中山道中膝栗毛@6/7 実況中継

中山道中膝栗毛@6/7<br />
 実況中継

若干、録画モードです(笑)
本日、横川駅〜坂本宿〜軽井沢宿行脚中…
13:30ごろ、碓氷峠通過。
長野県、
キタ――――――(・∀・)――――――ッ!!!
現在、下界に降りて、旧軽井沢~軽井沢駅方面に進行中。
嗚呼、隔世の感w
自主トレは、つづく。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/05/05

中山道中膝栗毛@5/5 実況中継

高崎より先、、、ついに禁断の、そして新たなる一歩を歩み出しました…

中山道中膝栗毛@5/5<br />
 実況中継 

 

雨の中、板鼻宿〜安中宿行脚中。

女の道は一本道。

シーズン中なれど、自主トレ、再開。

 

追記:
本日は、高崎宿~松井田宿(約20㎞)までといたしました。
ダンナの転勤もあったので、一旦高崎で止めておこうと思っていたのに、つ、つい、、、けさ起きて行きたくなったものですから(笑)
レッズの調子を上げるためにも、さらなるゴル裏での応援のパワーを増幅すべく、自主トレを兼ねて中山道を再び歩いてみました。
しかし、次回がいつになるのか、さらに続くのかは全然未定です。適当なところで止めてしまう可能性もあります。「遠征のついで」に行けるところではありませんし、なにより電車代が「もー大変なんですから」(三平師匠調)。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008/02/26

中山道中膝栗毛@蕨宿~浦和宿~与野

前回(『板橋宿~蕨宿』編)のつづきです。

実は、この区間を最初に歩いたことが今回の旅の発端になったことは、こちらにダラダラと書いておりますのでご参考までに。
この日最初の目的地は、蕨城址でした。

【蕨城址(わらびじょうし) 埼玉県蕨市 2008年1月14日 PM1:30 訪】 

080114warabi2 以前松山城のエントリの折にも触れましたが、蕨城は埼玉の代表的な中世の城として、忍城・河越(川越)城・岩槻城・松山城・鉢形城と並び称されています(『歴史ロマン・埼玉の城址30選』(西野博道編著・埼玉新聞社刊)より)。このたび、これらの名城で唯一訪れていなかった蕨城へ行くとあって、かなり楽しみにしていたのですが、、、
城址とされる蕨市民会館敷地内にあったのは、『蕨城址碑』と書かれた巨大な石碑と、堀跡が池としてわずかに残されていただけでした。残念。

080114warabi3隣接する和楽備神社へ。古くから八幡大神を祀り近隣の民の信仰を集めていたそうなのですが、明治後期に周辺の18社を合祀して、現在に至っているとのこと。境内に乃木将軍の像があったのですが、由来はわかりません(^^;
軽く参拝を済ませて、「ついでだから」と、中山道方面へ歩くこと数分・・・

【2宿目:蕨宿本陣(わらびじゅくほんじん) 埼玉県蕨市 2008年1月14日 PM1:50 訪】
■本陣2、脇本陣1、旅籠23軒(天保14年記録より) 

080114warabi1 日付は前後いたしますが、この道中記のはじまりは、まさにここから。千里(もないけど)の道も、「ここ」の一歩から、です。
本陣隣の『蕨市立歴史民族資料館』が祝日(成人の日)で休館だったので、辺りをひととおりみてのち、中山道を北方向へ目線を向けたダンナが一言、

 「(歩いて)帰るか。」

自宅までどのくらいの距離と時間があるのか深く考えず、歩き出しました。
なお、蕨本陣についてのお話は、前回のエントリをご参照ください。

080114warabi5

080114warabi4 何も考えていないので(笑)、結構キョロキョロ珍しそうに見物しながら歩きました。前回ご紹介した『木曾街道六十九次』のレプリカ舗装に視線を導かれていたら、歩道脇の何気ない側溝のフタに細かい芸が仕込んでありました。ご当地デザインの採用はマンホールではよく見られますが(当然マンホールも意匠に工夫あり)、このような細かいパーツにまで配慮している例は珍しいと思います。
また歩道も、わざわざ段差を設けなくとも舗装材質を車・歩道別に変えるだけで随分と見栄えが良くなるものです(最近、大宮の氷川参道も同様の整備をしています)。

080114warabi6

蕨宿は随所に宿場町としての演出と整備が施されています。これまで辿って来た距離や、次の宿駅までの距離が分かると、旅人にとっては有り難い限り。「くたびれた奴(東大前~駒込の件を参照)」にはなおさら有り難し(笑)。自治体や地元住民の取り組み姿勢が伝わってくると、訪れる者にとってもその熱意は心地よいものです。

080114sangakuin間もなく、進行方向右手に短い参道が目に入り、その先に大きな寺院が見えました。『三学院』というこのお寺は古くから多くの人々の信仰を集め、徳川家の庇護を受けていました。また真言宗僧侶の教育機関としての機能を果たしていたそうです。訪れた時は山門が工事中でしたが、境内には入れました。本堂をはじめ三重塔もあり、かなり立派なものでした。
なお門前にある子育て地蔵様をはじめ数体の地蔵様が鎮座されています。どれも霊験あらたかとのこと。

080114warabi7

080114warabi8

中山道と国道17号の交差点、宿の北端にある北町交番もまた昔の商家風にデザインされていました(右写真)。この国道17号が横切る『錦町3丁目』交差点を渡って、中山道は第二中学校方面へ直進します。前回書き忘れましたが、蕨宿から熊谷宿に至るまでの長い間、何度か交差はするものの、中山道は国道17号としばし離れます。そのためでしょうか、蕨宿~浦和宿の間には街道筋の面影がわずかに残されていてなかなか楽しめます。この先は、道なりに浦和・辻方面に歩を進めます。

080114warabi9しばらく学校や住宅街が続いたのち、空中に巨大な構造物が見えてきました。 外環道です。これが見えてくれば、さいたま方面に向かっていることはまず間違いありません(地図を持たないので実は少々不安でしたw)。安心して直進を続けます。

 

080114tsuji1 外環道との大きな交差点(『辻2丁目』交差点)に、立派な一里塚跡の碑がありました。『辻の一里塚』と呼ばれていたそうで、日本橋から数えて5番目の一里塚だったそうです。
徒歩交通時代の一里塚の頭上に現代の高速度交通が走る・・・板橋同様、江戸と平成の隔世感を表している風景です。これも街道歩きの醍醐味のひとつではないでしょうか。

辻の町内に入れば、ここは浦和------。
と、あとになって気がつきました。
油断のあまり、私は大失態を犯してしまいました。
「地元」という気持ちが働いたのか、これより先の写真撮影をすっかり忘れてしまいました ((((;゚Д゚))) ガーン!
この先、後日撮り直したものが多く含まれています。どれがどれかは秘密です(笑)

さて、気を取り直して。

080114tsuji2

※地図左上の再生ボタンを押すと、『辻2丁目』交差点~焼米坂ルートを再生します。

『辻2丁目』交差点から住宅街を道なりに歩き、『六辻水辺公園』が見えてきたところの車道がT字路になっていて(上左写真)、そこを右折してすぐ国道17号の『六辻』交差点がありますので、交差点を渡って道なりに進みます。
上右写真は、T字路から来た道を振り向いたところ。“中山道”の可愛い道標がありました。

080114tsuji3

左写真:『六辻』交差点を渡ってすぐのところに、「中山道左折」の案内板あり。
右写真:左折地点。変形十字路ですが、“Y字”の左方向へ進みます。

080114yamigomezaka1

080114yamigomezaka2ほどなくして行く手に見えてみたのは、浦和最大の難所(?)である『焼米坂』。自転車で登り切るには少々きつい勾配です。当時、この坂には焼米を売る店が多かったのが名の由来だそうですが、正式には『浦和坂』というそうです。歩道橋の下には、坂の名を示す碑がありました。
今もこの“難所”に日々挑むのは、地域住民のほか、この脇にある南浦和小学校に登校する児童と、浦和方面へ下校する浦和南高生でしょう。ご苦労様です(笑)。

080114tsuki調神社が見えてきました。ここまで来たら自宅までは散歩圏内。素通りも何ですので、お参りをして小休止。この日は高校サッカーの決勝戦があったので、ベンチにしばし腰掛けながらワンセグ視聴。スイッチを点けたところで、流通経済大柏高が2点目をゲット。藤枝東にエールを送りながら、出発。

 

【3宿目:浦和宿(うらわじゅく) 埼玉県さいたま市 2008年1月14日 PM3:20 訪】
■本陣2、脇本陣3、旅籠15軒(天保14年記録より)

080114urawa1

ワシントンホテル前にある『中山道浦和宿』碑(同じものがセンチュリーホテル前にあります)。浦和宿は旅籠数を見ると規模は小さかったようですが、江戸に近いことから商業が発達していたため、規模以上に賑わっていたとのこと。『続膝栗毛』にある弥次喜多狂歌でも、
 「しろものを積みかさねしは商人のおもてうら和のにぎはひ」
と表されたようで、旅籠より商家が多かったことがうかがえます。

080114urawa3 その“にぎはひ”は、県庁通りを渡った中心市街地に、今も受け継がれています。しかし、昔日の面影は木っ端微塵に跡形もなく(ノ;д`)、カラフルな街並みへと変貌しています。大宮とならび、現代中山道の“渋滞の名所”と言っても過言ではないでしょう。わずかに残されているのは、関東十壇林(壇林=仏教の学問所)のひとつであった玉蔵院、江戸の頃から続いているうなぎの山崎屋くらいでしょうか(ちなみに調神社近くの満寿屋は明治21年創業)。勝手な想像ですが、玉蔵院の存在が、文教都市・浦和へと引き継がれたような気がします。

080114urawa2

歩き慣れた道の傍らにある、車止めのレリーフ。
かつてここが宿場であったことをアピール。これも、PRIDE OF URAWA。
右はおそらく調神社をモチーフにしているものと思われます。

ここまで来れば気も楽になりまして・・・

080114urawa4 

 

いつもの「サ店」でお茶したり・・・ 

 

 

080114urawa5 

いつもの「店」を冷やかしに行ったりしますw 

 

 

080114urawa6

『仲町』交差点。右折すると駒場スタジアム方面。往時はこのあたりが最も賑わっていたとか。交差点を渡った左手に本陣があったそうです。ここから新浦和橋の高架付近までの間には、古い建物をわずかに見ることができます。

 

080114urawa9 ご存じの方も多いかと思いますが、ちょっと先へと進んだ電器屋と酒屋の間に、こんな看板が。「ご当地」ならではのデザイン(^^)。看板の左肩に「2002 ワールドカップ決勝戦を浦和に」とありますが、大会が終わってすでに数年、降ろすにはあまりに惜しい看板とのことで残したものと勝手に妄想しています。夜間のライトアップ設備がそれを物語っているようです(笑)。

 

080114urawa7 常磐公園の入口にある、野菜売りの女性の像。夜中に遭遇するのはちょっとご勘弁願いたいところ(笑)。
冗談はさておき、、、隣にあった銘板の説明では、すぐ北側にある慈恵稲荷の社頭で、二と七のつく日に市が立ち、相当賑わっていたそうです。『二・七市』と呼ばれたこの市は、戦国時代から昭和の初頭まで開かれていたと記されています。中山道から常磐公園に続くこの道は現在『市場通り』と名付けられ、この像とともに往時を偲ぶ場所となっています。

080114urawa8その『二・七市』の市場跡となる、慈恵稲荷神社。
社頭は今では交通量が激しく、とても市など開けない状況となりました。市場の面影もありません。跡碑だけが、その歴史を静かに伝えています。

 

080114urawabashi 新浦和橋の高架をくぐりほどなく歩くと、浦和と北浦和を結ぶ浦和橋に。このあたりが宿外れだったとか。橋の下には、京浜東北線、宇都宮線、高崎線などが走り、まさに“埼玉の鉄道街道”。首都圏と東日本をつなぐ大動脈です。新幹線と埼京線も集積する大宮駅はまさに“東日本の延髄”と形容できます。アントニオ猪木に蹴りをかまされないよう注意が必要です。

080114kitaurawa1浦和橋を渡ると、北浦和の街に。橋を渡った交差点を右折すれば、駒場スタジアムへ・・・と、ここは県道65号線沿いに北上を続けます。開発の進んだ北浦和市街も、残念ながら全くと言っていいほどかつての街道筋を彷彿とさせてくれるものは残されておりません。狭い道を挟んだ沿道は、マンションや店舗がひしめき合うように並んでいます。 しかし、一本道を入ると、閑静で高級な住宅街となっています。浦高、市立高、本太中など学校が多いことがその閑静さを醸し出しているのかも知れません。

080114kitaurawa2浦和が野菜売りの女性像なら、現代の北浦和・中山道を象徴するものは、やはり「これ」ではないでしょうか。
傍目には賑わっているように見える『北浦和GINZAレッズ商店街』ですが、レッズのホーム機能が埼スタに移行してからは、めっきり客足が遠のいてしまったと、駅からタクシーに乗車すると運転手さんからそんな話をよく聞かされます。

北浦和から与野駅まではラストスパート。
ただ、ひたすら家まで歩くだけ、と淡々と歩いていたところ、、、
目の覚めるような看板が。

080114kitaurawa3

何と申し上げて良いのやら・・・ww

080114yono1

与野・針ヶ谷界隈には若い頃住んでいたので、懐かしさが漂います。あれからずいぶん経つのですが、当時の街並みや店が今もほぼ変わらずそこにありました。大原陸橋のたもとにある立派な庚申塔も健在。心ある地元の方によるお供え物がありました。

【PM4:40ごろ 一本松 着】

080114yono2

大原陸橋からJR与野駅方面に少し進んだところにある『一本杉』の碑。碑銘が車道側にあるせいか、近所にお住まいでもお気付きの方は少ないのではないでしょうか。実はこれ、“仇討ち”の記念碑なのです。現在は傍らに小さな杉が植えられていますが、当時は大きな杉があったとのこと。維新前の文久4年(1864年)、ここで水戸藩家臣・宮本鹿太郎が、4年間追い続けた父親の敵・讃岐丸亀藩浪人・河西祐之助と果たし合い、見事本懐を遂げたそうです。この仇討ち話は、講談となり江戸などで上演されたそうですが、この事件の対応・処理費用25両は針ヶ谷村で持たされることとなり、村にとっては思わぬ出費に見舞われてしまったのが現実のようです(^^; また、あと数年河西某が逃げ切っていたなら、どのような事の顛末になっていたのでしょう・・・などと妄想するのはこのくらいにして。

陽も傾き、もはやここは“家路”のエリア。
ホッとした心持ちで途中夕飯の買い物を済ませ、無事帰宅。

しかし、、、この時。
この思いつきの散歩の終わりが「はじまり」だとは、夢にも思っていませんでした。

■2008年1月14日(祝) 蕨宿~与野駅全行程
 ・距離:8.2㎞ 所要時間:3時間10分(うち、40分程度休憩)
 ・全行程ルートマップは、
こちら
  全行程マップ右の『ルート再生』ボタンを押すと、ルートを「小僧」さんが一生懸命走ってくれます。
  ご自分の体重・年齢を入力すると、同行程の消費カロリーを計算してくれます。
  お試しください。

(次回:『与野~大宮宿~上尾宿』編につづく)

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008/02/23

中山道中膝栗毛@2/23 実況中継

本日、本庄宿〜高崎宿間行脚中…

中山道中膝栗毛@2/23<br />
 実況中継

神流川通過。

群馬県、

キタ――――――(・∀・)――――――ッ!!!

自主トレは、つづく。

追記:
午後4時40分ごろ、高崎宿の宿外れまで歩いて、自主トレは「とりあえず」完了いたしました。
今、帰りの高崎線から書いています。
ご声援、誠にありがとうございましたm(_ _)m

道中記はいずれ、また、その、、、いつかな?(笑)

追記その2:
無事帰宅しまして、デザイン、戻しました。
携帯の管理画面で変なところを「ポチッと」押してしまいまして、、、
驚かれた方、読みづらかった方、大変失礼いたしましたm(_ _)m。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/02/13

中山道中膝栗毛@板橋宿~蕨宿

前回(『神田明神~板橋宿』編)のつづきです。

【1宿目:板橋宿(いたばしじゅく) 2008年1月26日 PM0:55ごろ 訪】
■本陣1、脇本陣2、旅籠54軒(天保14年記録より)

080126itabashi1 国道17号の『板橋3丁目』交差点を渡ると、そこは板橋宿。中山道六十九次最初の宿場町。東海道の品川宿、日光街道の千住宿、甲州街道・内藤新宿と並び『江戸四宿』のひとつされています。当初は江戸からあまりに近いので泊まり客が少なく、沿道の宿や店は商売あがったりだったそうですが、徐々に江戸の近さが幸いし、庶民の盛り場として、また近隣にあった加賀藩下屋敷の侍たちの歓楽の場として、大いに栄えるようになったとか。
板橋宿は、京に近い方向(北側)から『上080126itabashi2宿(現・本町)』『仲宿(現・仲宿)『平尾宿(現・板橋)』の3宿に分かれていたそうで、旅籠の件数からも、かなり大規模な宿駅だったことが想像できます。

商店街にはいたるところにウサギが。『ラッピー』と呼ばれるこのマスコットの名の由来は、「ラッキー」+「ハッピー」=『ラッピー』なのだそうです。商売熱心なラッピーは、ゲートの上だけでなく、それぞれの店先でも道行く客を出迎えてくれています。

080126itabashi3

商店街を歩き出して間もなく、朱塗りの山門の観明寺が見てきます。板橋宿の寺として多くの人々の信仰を集めたそうです。その道沿いの入口には、寛文元年(1661年)建立の庚申塔で、青面金剛像の彫られたものとしては都内最古のものとのこと。

080126itabashi5 平尾宿から仲宿に向かう中山道の街並み。下町の風情そのもの。「あっ!鳥だ!」「あっ!ヒコーキだ!」「あっ!タケチャンマンだ!」というセリフが聞こえてきそうです(笑)。両宿の間に王子新道が通っています。その『旧中山道中宿』交差点の角の喫茶店で昼食&休憩(店の名は忘れましたが、昭和の喫茶レストラン風のお店。ハンバーグステーキを注文しましたが、懐かしくて美味しいでした)。

40~50分ほどの休憩の後、行脚再会。
080126itabashi7沿道左手に、ひっそりと立つ案内板が目に入りました(クリックで 拡大)。幕末の蘭学者・高野長英が、幕府の政治批判の罪で囚われていた小伝馬町牢屋敷火災の折の「切り放し」で脱獄、ここ板橋宿の医師で門人だった水村玄洞宅に1日かくまわれていたそうです。「その後、北足立郡尾間木村に住む同門で実兄の高野隆仙宅に人をして逃れさせた」との一文を読み、以前、赤山街道巡りをした時に見かけた、あの高野家離座敷のことだったのだなぁ、と感じ入りました(国道463号・浦和美術専門学校の裏手あたりにあり。私が訪れた当時は復元前でした)。

080126itabashi8 あれこれよそ見をしながらタラタラ歩いていたら、肝心なものを見過ごしてしまいました。
『板橋宿本陣跡』。
あとで調べたら、辛うじて撮影した、この写真の右側にあるスーパー『ライフ』が本陣跡だったとのこと。
 _| ̄|○ orz...

080126itabashi9

080126itabashi10 いわゆる“板橋”の名の由来となった、石神井川に架かる『板橋』。日本橋から二里二十五町三十三間(10.642㎞)の里程を示す道標がありました。当時はこの橋の前後が最も賑わっていたそうです。橋を渡ると『上宿』となります。
橋上からは首都高が見えました。江戸と平成の時代が同居する、感慨深い風景です。

080126itabashi11

上宿は、かつての賑わいからするとずいぶん静かになったのではないでしょうか。人通りも商店も少なくひっそりとしていました。
明治の世に変わり、文明開化の象徴である鉄道整備による板橋駅の開業が、人馬の宿継ぎ機能で栄えた板橋宿に少なからず影響を与えたことがうかがえます。
右写真は、街道筋の交番。今もなお宿場町としての風情を醸し出そうとの配慮が、地元への愛着を感じさせてくれます。

080126itabashi12

交番のすぐ隣にある『縁切榎』。読んで字の通りの意味ですので、皇女・和宮が14代将軍・家茂に降嫁の折、ここを通過する際には、菰を被せて隠したとのエピソードがあります。
元々の木は少し移動したところにあったそうで、現在の榎は3代目と言われています。

 

080126itabashi13先を歩くとほどなく、環状7号線に当たります。板橋宿はだいたいこのあたりまでだったそうです。環七の高架をくぐって、さらに道なりに『泉町』交差点へと進み国道17号と再合流し、その先は志村坂上までひたすら北上します。

 

080126ichirizuka1

 

 

 

 

 

 

080126ichirizuka2 都営三田線・志村坂上駅に近づくにつれ、交通量の激しい国道の現代的な沿道風景を一変させる巨木と森のような塚に目を惹かれます。ここが『志村一里塚』と呼ばれる中山道3番目の一里塚。なんと今でも国道を挟んだ両側に、見事な一里塚が残されています(右写真:反対側、上り線の一里塚)。日本の交通史上貴重な史跡として、街道の歴史の重みを今に伝えてくれています。

【PM2:40ごろ 清水坂入口】

080126shimurasakaue 少し北に進んだ『志村坂上』交差点に、交番があります。この交番と『みずほ銀行』の間にある細道が中山道です。この先に、江戸の中山道の難所だった『清水坂』があります。
ここで再び国道17号を離れます。

 

080126sshimizuzaka1

沿道は主に住宅街となっていますが、今も大小の庚申塔や道標が大切に残されています。右写真は庚申塔と追分の道標が併設されているもの。向かって左側の細い道標正面には、「寛政四年 是より大山道ならびにねりま川こえ(川越)みち」とあり、向かって右側の庚申塔側面には「是ヨリ富士大山道 練馬江一里 柳沢(西東京市)江四里 府中江七里」と彫られているのが今でもわかります。江戸の頃は富士講大山講が盛んで、特に『大山詣で』は江戸の庶民の人気が高かったと言います。ここから大山へつづく道があったのだと思うと、遙か昔の街道の面影に思いを馳せることができます。

080126sshimizuzaka2

清水坂は、日本橋を発って最初の難所として有名でしたが、京へ上る方向へ歩く場合、途中大きく曲がるカーブにより、中山道で唯一「右手」に富士山を眺望できる名所としても有名だったそうです。昭和30年代までは旧街道の面影を残していましたが、地下鉄三田線の開通などにより、現在はその姿を変えてしまいました。しかし、今も残る急坂は昔日を物語っています。京方面には下り坂で楽ですが、江戸方面に向かう旅人には長い登り坂で、その大変さを偲ぶことができます。

080126sshimizuzaka3

左写真:清水坂を下ったところにある三叉路を、右折してさらに坂を下ります。
右写真:都営三田線のガードをくぐり、国道17号方面へ向かいます。

080126shimura1

国道17号『志村3丁目』交差点手前で中山道は合流します(右写真)。
歩道橋を渡って、さらに複雑怪奇なルートを辿って旅はつづきます。

 

080126shimura2  

歩道橋を渡って、すぐ下の赤いカラー舗装の部分が旧道(上地図のピン図示の道)なのですが、いかんせんものの数十メートルで環状8号線に横切られ「行き止まり」になっています。短くてもいちおう通過しました。
環八の向こうにつづきの中山道(上右写真)が延びていましたので、『志村3丁目』交差点の横断歩道を渡って、国道17号に並行した裏筋となる“つづきの中山道”を通り、『志村坂下』交差点手前で、再び国道17号と合流します。
清水坂~志村坂下のルートはこちら↓

080126shimurasakasita『志村坂下』交差点を過ぎたところで、ようやく「日本橋から15㎞」のキロポスト標に遭遇しました。新河岸川を渡るまで、国道17号をひたすら歩きます。

 

 

080126shingashigawa 新河岸川を渡って、すぐ川沿いの道へと右折し、国道17号としばし別れます。大きなパチンコ屋が目印となります。そのパチンコ屋の建物に沿って廻るように、左折→また左折と曲がり、国道17号に並行するように北上します。

 

080126funato2

パチンコ屋の裏手にあった板碑。板碑とは、鎌倉~室町時代に、親の供養や自分の後生供養などのために建てられた石製の“卒塔婆”のこと。ここには、破片なども合わせてお祀りしてあるそうです。最近の発掘調査でも、この一帯では鎌倉~室町時代の「まち」の跡が確認されているそうで、板碑には文明9年(1477年)、文明17年(1485年)、明応5年(1496年)、大永(1521~1527年)の年号を読み取れるものがあり、由緒の古さに驚かされます。最近まで子供の“はしか”に霊験があると信仰されていたそうです。

080126funato6 そろそろ荒川越えか・・・と思ったところに、新幹線&埼京線の高架が見えてきました。『第一硝子』の建物の向こうの高架下で道が突き当たるので右折し、住宅地を抜けて、堤防の坂路を登ります。

 

080126funato8荒川・舟渡側の堤防より、かつて戸田の渡船場のあったあたりの彼岸を見渡します(JR鉄橋下流側)。此岸の河川敷は『荒川戸田橋サッカー場』です。
いよいよ江戸に別れを告げ、荒川を渡ります。
実は、戸田橋を歩いて渡るのは初めてだったりします(笑)。

【PM3:40ごろ 戸田橋通過】

080126todabashi2  

埼玉県、キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ッ!!!!

 

080126todabashi4 実はこの先も、フクザツな道を辿ります(笑)。
戸田橋の橋詰めにある交番脇の堤防坂路を下ります。つまり戸田橋の部分だけ国道17号を通っただけで、再び旧道へ戻る、というわけです。

 

080126toda1交番から200mほど坂を下った坂路の途中に、『中山道戸田渡船場跡』の碑がありました。資料に拠れば、この渡しは天正年間(1573~1591年)よりあったとされています。江戸時代になり中山道が整備されたことで、交通の要衝として、そして幕府公認の河岸場として賑わっていた当時の様子が目に浮かぶようです。
明治になり、中山道の交通量が増えたことで木橋が建設され(明治8年:1875年)、『戸田の渡し』はその永い歴史における役目を終えました。

080126toda2渡船場碑の右下には、『水神社』が祀ってありました。ご神体は岩。社殿はありません。創建年は不明ですが、水神様として、川岸に住む人々の氏神様として信仰を集めていたようです。昔は、その年の初物の胡瓜を水神社にお供えし、その後荒川に流してからでないと泳げなかった、という風習があったとか。

日没が近づいてきました。渡船場の下、真っ直ぐに北上する細い道が旧中山道。道を急ぎます。

080126toda3

080126toda5『川岸ミニパーク』前を通ってさらに進むと、菖蒲川に突き当たり、道が途絶えました(上左写真)。ここまで順調に中山道の原道線形上を辿って来られたのですが、この先、下戸田あたりの中山道は、国道17号の『本町』交差点付近まで残念ながら失われています。代わりに『川岸橋』を渡り(上右写真)、『田辺三菱製薬』脇の道路を北上します。オリンピック通りの1本手前の角(右写真の、赤色の軒の中華料理店)を左折し、さつき通りという商店街を通って、再び国道17号に合流します。
板橋区・志村3丁目交差点~戸田市・川岸3丁目交差点のルートはこちら↓

080126toda6ここから先は、蕨宿の入口までひたすら歩きます。何の変哲もない国道風景ですので、集中して歩けます。ここで一気に距離と時間を稼ごうとしたのですが・・・

 

080126toda7 

こんなものを見つけてみたり、、、

 

080126toda8

こんなものを見つけては、興奮しておりました(笑)。

【2:蕨宿(わらびじゅく) 2008年1月26日 PM4:40ごろ 訪】
■本陣2、脇本陣1、旅籠23軒(天保14年記録より)

080126warabi2

080126warabi1

だんだんと陽が落ちて焦ってきたところに、ようやく蕨宿の入口を示す碑が見てきました(注:写真中のモデルさんは本文とは関係ありません)。
宿場の雰囲気を演出するような木戸風のゲートも整備されていて、良い道標となっています。
江戸から数えて2番目の宿場。未だ狭080126warabi3い道の様子が、かつて街道筋であったことを物語っています。

歩道には、歌川広重と渓斎英泉の合作として有名な『木曾街道六十九次』のレプリカが描かれています。かなり夕暮れが迫ってきた折にて、このような写真となりましたorz...
ちなみに写真は鴻巣宿の浮世絵。全作チェックをする余裕もなく、本陣を目指します。。。

【PM4:50ごろ 蕨宿本陣 着】

080126warabi5

080126warabi6本陣は、地元の有力者・岡田氏が代々務めていたそうです。公家や大名が宿泊した記録が、内部の展示ケースの木板に書き込まれていました。意外にも肥前・佐賀、肥前・小城、豊後・岡などの九州の大名の名もありました。東海道に比べ「川止め」が少なかったことから、旅程を計画しやすかったことがうかがえます。
皇女・和宮の江戸降嫁の折や、明治天皇の大宮氷川大社参拝の折も休憩所として利用されたようです。
なお、ここに隣接して『蕨市立歴史民族資料館』という立派な施設がありますので、時間のある方は、こちらも訪れて蕨宿の歴史に触れてみてはいかがでしょう(戸田寄りに別館もあり)。

・・・・・・と、ここで、写真撮影するには限界な時間となりました。
みるみるうちに夜の帳が降りてきました。
日本橋を出発した当時の予定は、

 「(与野の)おうちまで帰ろう」

だったのですが、残り10㎞、、、_| ̄|○ orz...
2週間前に、ここから自宅までは踏破済みでしたので、道半ばではありますが、この日の旅は蕨宿で終わることにしました。

たった1日の徒歩の旅を3回に分けて長々とお送りしまして、大変失礼いたしましたっ!(笑)

■『板橋宿~蕨宿』ルートのおさらい
(再生ボタンを押すと、ルートを辿ります。)
※国道17号『清水町』~『泉町』交差点間は、国道東側の裏筋を通ります。
 地図ソフトが、実際通った道を認識してくれませんでしたorz...

■2008年1月26日(土) 日本橋~蕨宿全行程
 ・距離:20.3㎞ 所要時間:6時間40分(うち、40分程度休憩)
 ・全行程ルートマップは、
こちら
  全行程マップ右の『ルート再生』ボタンを押すと、ルートを「小僧」さんが一生懸命走ってくれます(笑)
  ご自分の体重・年齢を入力すると、同行程の消費カロリー計算をしてくれます。
  お試しください。

(次回:『蕨宿~浦和宿~与野』編につづく)

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2008/02/05

中山道中膝栗毛@神田明神~板橋宿

前回(日本橋~神田明神編)のつづきです。

【2008年1月26日 AM11:00ごろ 神田明神 発】

11時すぎに慌てて神田明神を発ち、中山道(本郷通り)をすたこら歩くこと数分・・・

080126jfa_house

 

 

 

 

 

 

右手に、こんなものが見えてきました(笑)。
ちょうどこの日(1月26日)は、岡田ジャパンの初陣・チリ戦の日。この頃、ビルの中は準備と対応で大忙しだったのではないでしょうか。

そんな協会を横目に、本郷通りを北上します。

080126hongost

 

 

 

 

 

本郷3丁目あたりから、赤煉瓦の塀が延々と続きます。ご存じ・東京大学本郷キャンパスの敷地と建物が見えてきます。何故か身の引き締まる思いで(笑)歩いていると、東大のシンボル・赤門が。

【AM11:20ごろ 東京大学 赤門前】

080126tokyou1ここは、加賀藩・前田家の上屋敷がありました。11代将軍・家斉の娘・溶(やす)姫が前田家に嫁した時にこの赤門が建てられたとのこと。国指定重要文化財。教育学部、学士会館、三四郎池、薬学部等の最寄りの出入り口になります。
さすがは観光地、赤門をバックに記念撮影する人の姿も。特に受験シーズンとあって、地方から上京してきた風の女子高生グループが、湯島天神参拝の帰りに寄ったのでしょうか、「合格祈願」のお守り代わりに携帯で写真を撮りまくっていました。東大を目指しているかどうかは不明ですが(^^;、ガンバレ受験生!

080126tokyou2東大の前から『さいたま』の文字を見ると、元気づけられました。しかし、旅はまだはじまったばかり。さいたまは遙かなり。
赤門を過ぎ、言問通り(『本郷弥生』交差点:右写真)を渡ると、弥生キャンパスの農学部正門があります。その前がT字路交差点となっていますので、中山道(国道17号)はこの交差点の酒屋の角を左曲がりに進路を取ります。当時、ここにはかつて『追分一里塚』があり、中山道最初の一里塚だったそうです。直進すれば岩槻街道(日光御成道)、左に曲がれば中山道の道標となっていたとのこと。

080126tokyou3 右写真は、農学部前の交差点を渡った中山道の入口から、農学部方面を撮ったもの(左手が岩槻方面、正面が東大農学部、右手が日本橋方面、手前方面が中山道、となります)。
なお、この写真左手角にある酒屋さんは、宝暦の頃からの創業で、当時から酒屋と両替商を営まれていたそうです。

080126komagome2ほんの少し中山道を進んだ、本郷税務署界隈。本郷通りの喧騒とはがらりと変わり、住宅と小さな商店が混在した静かな佇まいとなっています。

 

 

080126komagome1現在向丘1丁目のあるこのあたり、旧町名は『駒込東片町』と呼ばれていたそうです。前文の内容を含めた解説が、この案内板にありました(右写真。クリックで拡大します)。その最後の一文にあった川柳に、思わずうなづくワタシ。

 くたびれた 奴が見つける 一里塚

080126sengoku『八百屋お七』の墓のある円乗寺、東洋大学の前を通ると、中山道は、白山通りと合流し、巣鴨まで広々とした道路を進みます。また道路の下には都営三田線が走っており、このあたりは、ちょうど『千石』駅付近です。
ここまで歩いている間に、会社の上司やら同期やら後輩やら数人の知人宅があるのですが、今日は先を急ぐ旅、木枯らし紋次郎じゃござんせんが(笑)、孤独な旅人は、どこにも寄らずにひたすら歩きます。ご無礼容赦のほどを、、、m(_ _)m

080126hakusan

 

 

 

 

 

 

久々にキロポストに遭遇。まだ6㎞・・・ww。
白山通りの表情は、いわゆる都心の一般国道そのもの。幹線道路として当然交通量が多く、車優先の道路整備がなされています。街道筋の面影は微塵もありません。

【PM0:05ごろ JR巣鴨駅 通過】

神田明神からちょうど1時間で、JR巣鴨駅前通過。電車だとわからない距離感が、歩くと違う尺度で実感できます。(神田から)「意外に近い」ものだなぁ、と驚きました。
真性寺前から白山通り(国道17号)を離れ、地蔵通りに入ります。

080126sugamo2

 

 

 

 

 

 

 

 

また来てしまった、、、_| ̄|○ orz...
デジャヴかいな。

080126sugamo3

 

 

 

 

 

高岩寺(とげぬき地蔵尊)の狭い境内は、例によって参詣の人々で埋め尽くされていました。境内横の公衆トイレで休憩していると、すぐ近くにある、カレーうどんの有名店『古奈屋』本店には、ちょうど昼時とあって行列がずらり。まぁ、私的には、ここで並ばずともアトレ上野や大宮そごうの支店ですぐに食べられるし・・・といった考えですがいけませんか?(^^;

080126sugamo4

 

 

 

 

 

相も変わらぬ賑わいを見せる、地蔵通り商店街。善光寺などでもそう思いましたが、ご先祖様が築いてくれた門前町の店々は、時代を超え子々孫々の代に至ってもなお“老舗”として栄える偉大な財産なのだなと感心させられます。それもひとえに、日本人の信心深さの賜物であり、この文化が日本の平和を象徴しているのでしょう。

080126sugamo5

 

 

 

 

 

商店街の北端、都電荒川線・庚申塚駅近くにある『猿田彦大神』(庚申塔)。庚申塔では一般的に、神道では猿田彦神、仏教では青面金剛像を祀っています。新しい時代のものは「庚申塔」の文字のみが彫られている傾向にあるようです。庚申塔および庚申信仰について詳しくはこちら(Wikipedia)。
庚申塔は全国的に分布しているはずなのですが、割に関東には多く残されているように080126sugamo6感じられます。街道筋の道標(塔の脇に道案内が彫られていることが多い)としての機能も有していたからかも知れません。

先へ進みましょう。都電荒川線・庚申塚駅の踏切を渡ります。東京で見る路面電車の駅の風景に新鮮さを覚えます。

 

080126sugamo7と、、、ここで奇跡が!!!
踏切を渡り、地蔵通りにつづく庚申塚通りに入ったばかりの場所。向こうからチャリに乗った中学生くらいの男子数名(右写真中央)が近づいてきたのですが、何やら唄っていました。そしてすれ違いざまに、その唄の歌詞をハッキリと耳にとらえたのです。

 ♪世界に 魅せつけろ 俺たちの誇り~

 (゜∀゜)flair

ダンナと私は、驚いて思わず少年たちの方向に顔を向けました。
チャリで走り去った彼らの後ろ姿を見送りながら、ダンナと「おー!おー!」と、言葉を忘れて感動してしまいました(笑)。まさに「東京の中心で、うぃあーが唄う」。

【PM0:45ごろ JR板橋駅 通過】

080126itabashi1

 

 

 

 

 

 

この付近に、新撰組局長・近藤勇の供養塔 がありましたが、寄らずに先を急ぎます(局長スマソ!)。
都内、特に板橋区内は、『中山道』の表記が多く、割に迷わずに歩くことができます。こうして歩いていると、自治体ごとの『中山道』の位置づけや、地域振興の要素としての力の入れ具合が目に見えてわかります。

080126itabashi2

板橋宿の入口まで、距離を稼ぐために歩きます。
そんな道中に、“浦和”の文字が見えると、つい嬉しくなります。
細い車道が通った商店街なのですが、板橋区内では、随所に『中山道』の表記をしてくれています。

080126itabashi3

 

 

 

 

 

 

080126itabashi4首都高・中央環状線(C2)が、行く手の上空を斜めに横切っています(すぐ近くに板橋JCTあり)。これに沿った下道は再び国道17号。しかしここで国道17号には戻らずに、来た道の延長上にある、上写真中央に延びる細い道を目指します。つまり、旧中山道は、幅広な現中山道(国道17号)に斜めに分断されている格好に。
この大きな交差点(『板橋3丁目』交差点)を渡ると、板橋宿の入口となります。

(次回、『板橋宿~蕨宿』編につづく)

■中山道:神田明神~板橋宿ルートのおさらい
(再生ボタンを押すと、ルートを辿ります。)

| | コメント (5) | トラックバック (0)