城跡をゆく

2008/02/26

中山道中膝栗毛@蕨宿~浦和宿~与野

前回(『板橋宿~蕨宿』編)のつづきです。

実は、この区間を最初に歩いたことが今回の旅の発端になったことは、こちらにダラダラと書いておりますのでご参考までに。
この日最初の目的地は、蕨城址でした。

【蕨城址(わらびじょうし) 埼玉県蕨市 2008年1月14日 PM1:30 訪】 

080114warabi2 以前松山城のエントリの折にも触れましたが、蕨城は埼玉の代表的な中世の城として、忍城・河越(川越)城・岩槻城・松山城・鉢形城と並び称されています(『歴史ロマン・埼玉の城址30選』(西野博道編著・埼玉新聞社刊)より)。このたび、これらの名城で唯一訪れていなかった蕨城へ行くとあって、かなり楽しみにしていたのですが、、、
城址とされる蕨市民会館敷地内にあったのは、『蕨城址碑』と書かれた巨大な石碑と、堀跡が池としてわずかに残されていただけでした。残念。

080114warabi3隣接する和楽備神社へ。古くから八幡大神を祀り近隣の民の信仰を集めていたそうなのですが、明治後期に周辺の18社を合祀して、現在に至っているとのこと。境内に乃木将軍の像があったのですが、由来はわかりません(^^;
軽く参拝を済ませて、「ついでだから」と、中山道方面へ歩くこと数分・・・

【2宿目:蕨宿本陣(わらびじゅくほんじん) 埼玉県蕨市 2008年1月14日 PM1:50 訪】
■本陣2、脇本陣1、旅籠23軒(天保14年記録より) 

080114warabi1 日付は前後いたしますが、この道中記のはじまりは、まさにここから。千里(もないけど)の道も、「ここ」の一歩から、です。
本陣隣の『蕨市立歴史民族資料館』が祝日(成人の日)で休館だったので、辺りをひととおりみてのち、中山道を北方向へ目線を向けたダンナが一言、

 「(歩いて)帰るか。」

自宅までどのくらいの距離と時間があるのか深く考えず、歩き出しました。
なお、蕨本陣についてのお話は、前回のエントリをご参照ください。

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080114warabi4 何も考えていないので(笑)、結構キョロキョロ珍しそうに見物しながら歩きました。前回ご紹介した『木曾街道六十九次』のレプリカ舗装に視線を導かれていたら、歩道脇の何気ない側溝のフタに細かい芸が仕込んでありました。ご当地デザインの採用はマンホールではよく見られますが(当然マンホールも意匠に工夫あり)、このような細かいパーツにまで配慮している例は珍しいと思います。
また歩道も、わざわざ段差を設けなくとも舗装材質を車・歩道別に変えるだけで随分と見栄えが良くなるものです(最近、大宮の氷川参道も同様の整備をしています)。

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蕨宿は随所に宿場町としての演出と整備が施されています。これまで辿って来た距離や、次の宿駅までの距離が分かると、旅人にとっては有り難い限り。「くたびれた奴(東大前~駒込の件を参照)」にはなおさら有り難し(笑)。自治体や地元住民の取り組み姿勢が伝わってくると、訪れる者にとってもその熱意は心地よいものです。

080114sangakuin間もなく、進行方向右手に短い参道が目に入り、その先に大きな寺院が見えました。『三学院』というこのお寺は古くから多くの人々の信仰を集め、徳川家の庇護を受けていました。また真言宗僧侶の教育機関としての機能を果たしていたそうです。訪れた時は山門が工事中でしたが、境内には入れました。本堂をはじめ三重塔もあり、かなり立派なものでした。
なお門前にある子育て地蔵様をはじめ数体の地蔵様が鎮座されています。どれも霊験あらたかとのこと。

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中山道と国道17号の交差点、宿の北端にある北町交番もまた昔の商家風にデザインされていました(右写真)。この国道17号が横切る『錦町3丁目』交差点を渡って、中山道は第二中学校方面へ直進します。前回書き忘れましたが、蕨宿から熊谷宿に至るまでの長い間、何度か交差はするものの、中山道は国道17号としばし離れます。そのためでしょうか、蕨宿~浦和宿の間には街道筋の面影がわずかに残されていてなかなか楽しめます。この先は、道なりに浦和・辻方面に歩を進めます。

080114warabi9しばらく学校や住宅街が続いたのち、空中に巨大な構造物が見えてきました。 外環道です。これが見えてくれば、さいたま方面に向かっていることはまず間違いありません(地図を持たないので実は少々不安でしたw)。安心して直進を続けます。

 

080114tsuji1 外環道との大きな交差点(『辻2丁目』交差点)に、立派な一里塚跡の碑がありました。『辻の一里塚』と呼ばれていたそうで、日本橋から数えて5番目の一里塚だったそうです。
徒歩交通時代の一里塚の頭上に現代の高速度交通が走る・・・板橋同様、江戸と平成の隔世感を表している風景です。これも街道歩きの醍醐味のひとつではないでしょうか。

辻の町内に入れば、ここは浦和------。
と、あとになって気がつきました。
油断のあまり、私は大失態を犯してしまいました。
「地元」という気持ちが働いたのか、これより先の写真撮影をすっかり忘れてしまいました ((((;゚Д゚))) ガーン!
この先、後日撮り直したものが多く含まれています。どれがどれかは秘密です(笑)

さて、気を取り直して。

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※地図左上の再生ボタンを押すと、『辻2丁目』交差点~焼米坂ルートを再生します。

『辻2丁目』交差点から住宅街を道なりに歩き、『六辻水辺公園』が見えてきたところの車道がT字路になっていて(上左写真)、そこを右折してすぐ国道17号の『六辻』交差点がありますので、交差点を渡って道なりに進みます。
上右写真は、T字路から来た道を振り向いたところ。“中山道”の可愛い道標がありました。

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左写真:『六辻』交差点を渡ってすぐのところに、「中山道左折」の案内板あり。
右写真:左折地点。変形十字路ですが、“Y字”の左方向へ進みます。

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080114yamigomezaka2ほどなくして行く手に見えてみたのは、浦和最大の難所(?)である『焼米坂』。自転車で登り切るには少々きつい勾配です。当時、この坂には焼米を売る店が多かったのが名の由来だそうですが、正式には『浦和坂』というそうです。歩道橋の下には、坂の名を示す碑がありました。
今もこの“難所”に日々挑むのは、地域住民のほか、この脇にある南浦和小学校に登校する児童と、浦和方面へ下校する浦和南高生でしょう。ご苦労様です(笑)。

080114tsuki調神社が見えてきました。ここまで来たら自宅までは散歩圏内。素通りも何ですので、お参りをして小休止。この日は高校サッカーの決勝戦があったので、ベンチにしばし腰掛けながらワンセグ視聴。スイッチを点けたところで、流通経済大柏高が2点目をゲット。藤枝東にエールを送りながら、出発。

 

【3宿目:浦和宿(うらわじゅく) 埼玉県さいたま市 2008年1月14日 PM3:20 訪】
■本陣2、脇本陣3、旅籠15軒(天保14年記録より)

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ワシントンホテル前にある『中山道浦和宿』碑(同じものがセンチュリーホテル前にあります)。浦和宿は旅籠数を見ると規模は小さかったようですが、江戸に近いことから商業が発達していたため、規模以上に賑わっていたとのこと。『続膝栗毛』にある弥次喜多狂歌でも、
 「しろものを積みかさねしは商人のおもてうら和のにぎはひ」
と表されたようで、旅籠より商家が多かったことがうかがえます。

080114urawa3 その“にぎはひ”は、県庁通りを渡った中心市街地に、今も受け継がれています。しかし、昔日の面影は木っ端微塵に跡形もなく(ノ;д`)、カラフルな街並みへと変貌しています。大宮とならび、現代中山道の“渋滞の名所”と言っても過言ではないでしょう。わずかに残されているのは、関東十壇林(壇林=仏教の学問所)のひとつであった玉蔵院、江戸の頃から続いているうなぎの山崎屋くらいでしょうか(ちなみに調神社近くの満寿屋は明治21年創業)。勝手な想像ですが、玉蔵院の存在が、文教都市・浦和へと引き継がれたような気がします。

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歩き慣れた道の傍らにある、車止めのレリーフ。
かつてここが宿場であったことをアピール。これも、PRIDE OF URAWA。
右はおそらく調神社をモチーフにしているものと思われます。

ここまで来れば気も楽になりまして・・・

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いつもの「サ店」でお茶したり・・・ 

 

 

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いつもの「店」を冷やかしに行ったりしますw 

 

 

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『仲町』交差点。右折すると駒場スタジアム方面。往時はこのあたりが最も賑わっていたとか。交差点を渡った左手に本陣があったそうです。ここから新浦和橋の高架付近までの間には、古い建物をわずかに見ることができます。

 

080114urawa9 ご存じの方も多いかと思いますが、ちょっと先へと進んだ電器屋と酒屋の間に、こんな看板が。「ご当地」ならではのデザイン(^^)。看板の左肩に「2002 ワールドカップ決勝戦を浦和に」とありますが、大会が終わってすでに数年、降ろすにはあまりに惜しい看板とのことで残したものと勝手に妄想しています。夜間のライトアップ設備がそれを物語っているようです(笑)。

 

080114urawa7 常磐公園の入口にある、野菜売りの女性の像。夜中に遭遇するのはちょっとご勘弁願いたいところ(笑)。
冗談はさておき、、、隣にあった銘板の説明では、すぐ北側にある慈恵稲荷の社頭で、二と七のつく日に市が立ち、相当賑わっていたそうです。『二・七市』と呼ばれたこの市は、戦国時代から昭和の初頭まで開かれていたと記されています。中山道から常磐公園に続くこの道は現在『市場通り』と名付けられ、この像とともに往時を偲ぶ場所となっています。

080114urawa8その『二・七市』の市場跡となる、慈恵稲荷神社。
社頭は今では交通量が激しく、とても市など開けない状況となりました。市場の面影もありません。跡碑だけが、その歴史を静かに伝えています。

 

080114urawabashi 新浦和橋の高架をくぐりほどなく歩くと、浦和と北浦和を結ぶ浦和橋に。このあたりが宿外れだったとか。橋の下には、京浜東北線、宇都宮線、高崎線などが走り、まさに“埼玉の鉄道街道”。首都圏と東日本をつなぐ大動脈です。新幹線と埼京線も集積する大宮駅はまさに“東日本の延髄”と形容できます。アントニオ猪木に蹴りをかまされないよう注意が必要です。

080114kitaurawa1浦和橋を渡ると、北浦和の街に。橋を渡った交差点を右折すれば、駒場スタジアムへ・・・と、ここは県道65号線沿いに北上を続けます。開発の進んだ北浦和市街も、残念ながら全くと言っていいほどかつての街道筋を彷彿とさせてくれるものは残されておりません。狭い道を挟んだ沿道は、マンションや店舗がひしめき合うように並んでいます。 しかし、一本道を入ると、閑静で高級な住宅街となっています。浦高、市立高、本太中など学校が多いことがその閑静さを醸し出しているのかも知れません。

080114kitaurawa2浦和が野菜売りの女性像なら、現代の北浦和・中山道を象徴するものは、やはり「これ」ではないでしょうか。
傍目には賑わっているように見える『北浦和GINZAレッズ商店街』ですが、レッズのホーム機能が埼スタに移行してからは、めっきり客足が遠のいてしまったと、駅からタクシーに乗車すると運転手さんからそんな話をよく聞かされます。

北浦和から与野駅まではラストスパート。
ただ、ひたすら家まで歩くだけ、と淡々と歩いていたところ、、、
目の覚めるような看板が。

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何と申し上げて良いのやら・・・ww

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与野・針ヶ谷界隈には若い頃住んでいたので、懐かしさが漂います。あれからずいぶん経つのですが、当時の街並みや店が今もほぼ変わらずそこにありました。大原陸橋のたもとにある立派な庚申塔も健在。心ある地元の方によるお供え物がありました。

【PM4:40ごろ 一本松 着】

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大原陸橋からJR与野駅方面に少し進んだところにある『一本杉』の碑。碑銘が車道側にあるせいか、近所にお住まいでもお気付きの方は少ないのではないでしょうか。実はこれ、“仇討ち”の記念碑なのです。現在は傍らに小さな杉が植えられていますが、当時は大きな杉があったとのこと。維新前の文久4年(1864年)、ここで水戸藩家臣・宮本鹿太郎が、4年間追い続けた父親の敵・讃岐丸亀藩浪人・河西祐之助と果たし合い、見事本懐を遂げたそうです。この仇討ち話は、講談となり江戸などで上演されたそうですが、この事件の対応・処理費用25両は針ヶ谷村で持たされることとなり、村にとっては思わぬ出費に見舞われてしまったのが現実のようです(^^; また、あと数年河西某が逃げ切っていたなら、どのような事の顛末になっていたのでしょう・・・などと妄想するのはこのくらいにして。

陽も傾き、もはやここは“家路”のエリア。
ホッとした心持ちで途中夕飯の買い物を済ませ、無事帰宅。

しかし、、、この時。
この思いつきの散歩の終わりが「はじまり」だとは、夢にも思っていませんでした。

■2008年1月14日(祝) 蕨宿~与野駅全行程
 ・距離:8.2㎞ 所要時間:3時間10分(うち、40分程度休憩)
 ・全行程ルートマップは、
こちら
  全行程マップ右の『ルート再生』ボタンを押すと、ルートを「小僧」さんが一生懸命走ってくれます。
  ご自分の体重・年齢を入力すると、同行程の消費カロリーを計算してくれます。
  お試しください。

(次回:『与野~大宮宿~上尾宿』編につづく)

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2007/06/29

松山城(埼玉)

明日の試合に因めば「掛川城総攻撃」(゜∀゜)と書きたいところですが・・・今回は、埼玉の代表的な城をご紹介。

『歴史ロマン・埼玉の城址30選』(西野博道編著・埼玉新聞社刊)をひもとくと、「埼玉を代表する城」として、

 忍城 河越(川越)城 岩槻城 松山城 鉢形城 蕨城

の6城が記されています。このたびの松山城で、蕨城以外の5城を訪ねたことになりますが・・・
「他の4城の紹介は?」という話ですが、聞かないでください(笑)。というのも、昨年のHDD破損で写真が全部「パァ」となりまして(号泣)、何年先になるかわかりませんが、いずれまた「やり直し」をば(つ;д`)
 #実は、掛川城も2回行ってたくさん写真があったんですけど・・・合掌。

で、ここを訪れたのは、議論百出した“彼の地”を訪ねた時でして・・・というか、実は“こちら”が当地を訪れた主目的だったのはナイショです(笑)

 

【松山城(まつやまじょう) 埼玉県比企郡吉見町:東武東上線 東松山駅より1.5㎞】<県指定史跡> 2007年5月5日 訪

070505matsuyama2 松山城は豊富に現存する文献等から、戦国時代を通して存在していたことが知られています。「松山城」と呼ばれる城は日本各地に存在(代表格は愛媛松山城)することから、『武州松山城』『武蔵松山城』と呼ばれることも。
地理的環境としては比企丘陵の先端にあり、吉見百穴とは道ひとつ隔てた「隣の小山」に築かれています。周囲を流れる市野川が西側と北側に断崖絶壁を形成し、天然の要害を成しています。

■城の歴史

070505matsuyama1 室町時代の応永6年(1399年)に上田友直によって本格的に築城されたと伝えられています。歴史的には、戦国の雄・北条早雲を祖とする後北条氏の台頭により歴史の表舞台に登場することに。かつての居城(河越城)を追われた扇谷上杉朝定が8年間ここ松山城を居城とし、後年奪還を図った経緯は、NHK大河ドラマ『風林火山』で先日放送された第23話『河越夜戦』でも描かれており、河越城とも大変縁のある城です。
河越夜戦で勝利をおさめた北条氏康の支配下となったのちの松山城は、後北条氏の勢力下で上田氏が長く治めましたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の関東攻略の際、前田利家と上杉景勝の連合軍により落城。徳川家康の関東入国後は松平氏が城主となりましたが、その後浜松に移封され、江戸幕府開闢直前の慶長6年(1601年)、廃城となり、その歴史を閉じました。

■河越夜戦と松山城

天文6年(1537年)に河越城が北条氏綱によって攻め落とされ、その後、松山城は河越城を失った扇谷上杉朝定の居城となりました。
北条氏綱が没すると、古河公方、関東管領(山内上杉家)、扇谷上杉家の三氏は同盟を結び反攻を開始、一部を除いて関東の武士すべてに号令をかけ、北条綱成が守備する河越城を7万人の大軍で包囲しました。小田原の北条氏康は綱成を救援するため約8千人の兵を率いて河越城に向かうも、戦況は数ヵ月間膠着状態。氏康軍の福島勝広(北条綱成の弟)が単騎で上杉連合軍の重囲を抜けて河越城に入城、兄の綱成に奇襲の計画を伝え、様々な知略が功を奏し、天文14年4月(1545年5月)『河越夜戦』は成功。この闘いで上杉朝定は闘死し扇谷上杉氏は滅亡し、松山城は北条氏康の手に渡りました。
この合戦は、約10倍の兵力差を覆しての勝利として、日本の戦史上高く評価されており、『桶狭間の戦い』『厳島の戦い』と並び、“日本三大夜戦”と称されています。

■城の歴史Nawabari2

参考までに、『城郭資料集成 中世北武蔵の城』(梅沢太久夫著・岩田書院刊)掲載の、松山城の縄張り図を転載します。
(※写真クリックで拡大します)

現在の入口から腰郭と笹郭の間付近の歩道を登り、まずは本丸へ。本丸に登ってまず驚かされるのは、高低差の大きい、大規模な空堀が状態良く保存されていることでした。山頂の本丸から東方向の尾根に沿って二の丸、春日丸、三の丸が配置され、その周囲を帯曲輪や腰曲輪が囲む構造になっています。これらの曲輪の間に空堀が良好に保存されており、城郭主要部の面積の50%を上回る部分を空堀が占めるという特徴的な縄張りとなっています。まさに中世の“砦”的な体を成した城であり、エコパ近くの高天神城を彷彿とさせてくれます。
以下、城内の様子をご紹介。070505matsuyama3

入口から腰郭と笹郭の間付近の歩道。ここを登り、本丸へ向かいます。

 

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本丸跡。この後方に二の丸、春日丸、三の丸が続きます。
横の空堀を伝って二の丸へ移動します。

 

 

070505matsuyama61070505matsuyama62 空堀は大規模で深く、起伏に富んでいました。樹木や草木の着生が、数百年の時の流れを物語っています。これだけ地形が原状のまま残っている状態を目の当たりにすると、感動を覚えます。  

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二の丸跡。
戦で命を落とした兵たちの魂を弔うかのように、ひっそりと祠が建っていました。 
城内で、建物があるのはこれだけです(当時のものとは違うと思いますが)。

 

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本丸下の兵糧倉跡。
今では緑陰濃く、森のようになっています。 

 

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城下の岩室観音堂に続く、沢状の堀。
その険しさに誘われ(笑)、降りてみることに。
予想通り、「転ばぬように・・・」と沢のようにぬかるんだ足下に神経を尖らせながら、やっとの思いで無事下山。
当時の兵士の苦労の一端と、この城の堅牢さを体感することができました。 

 

 

前述の高天神城や鉢形城(寄居町)を訪れたときの迫力と感動に近いものを感じました。
関八州の中世の戦いの歴史の名残がひっそりと、しかし力強く刻まれていました。
人々の評価に違わぬ、難攻不落の埼玉の名城でした。
近くの『吉見百穴』と共に、訪れてみてはいかがでしょう。

 

【参考文献】
吉見百穴資料展示館 配布資料
Wikipedia:『松山城(武蔵国)』『河越城の戦い』『上杉朝定(扇谷上杉)』の各項
『歴史ロマン・埼玉の城址30選』(西野博道編著・埼玉新聞社刊)
『城郭資料集成 中世北武蔵の城』(梅沢太久夫著・岩田書院刊)

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2006/11/29

【AWAY紀行】岐阜城

【岐阜城(ぎふじょう) 岐阜県岐阜市:岐阜駅よりバスで20分】 2006年11月19日 訪 

「天下布武」
信長の野望。

最終決戦直前のタイミングでこのエントリをアップすることになったのは、何かの巡り合わせでしょうか・・・ただ単に、「月が変わらないうちに」という単純な理由だけかも知れませんが(笑)。

061119kisoriver名古屋戦の翌日、名古屋市内の四間道を訪ねたあと、「よっしゃ」と一念発起してJRに乗り東海道線を西へ。
レッズの「天下布武」を祈念するため、岐阜城に向かいました。
今回のアウェイ旅で、名古屋観光はしても、木曽川を越えた“ういあー”さんは、そういらっしゃらなかったと思います(岐阜市内では、見かけませんでした)。
実は、余り知られていませんが、名古屋~岐阜は快速で15分程度で行けるのです。バキューンと木曽川越えを敢行し、岐阜市内へ。

061119kisostJR岐阜駅より、バスにて金華山の麓にある岐阜公園へ向かいます。市内バス路線は豊富にあり、浦和駅ほどではないものの、バスの本数は困らないくらいにあります。バスに乗り、市内中心部・柳ヶ瀬を通ると、やはりお約束『柳ヶ瀬ブルース』を口ずさんでしまう私は華麗です(爆)。 ついでに言うと、美川憲一の顔も脳裏をよぎりましたです、ハイ。 

 

061119gifu2バス停から金華山にそびえる岐阜城。ここは昔、『稲葉山城』と呼ばれていましたが、織田信長が斎藤龍興を破ったのち、『井ノ口』を『岐阜』に、『稲葉山』を『金華山』に、『稲葉山城』を『岐阜城』に改称しました。
 何の因果か知りませんが、私の父の名は『龍興』・・・(^^;

 

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交差点を渡り、岐阜公園着。
雨が降らぬうちに、ロープウェイにて金華山を一気に登ります。 

 

 

061119gifu3実は~~~高所恐怖症
  (@∀@;)/~
  ((((;゜Д゜)))
  ヽ(`Д´)ノウワァァァァァァン
(写真は、復路で撮影しました)

 

061119gifu4 山頂駅着。
ここからさらに階段を登ります。
ロープウェイの先を登るという険しさは、戦国の世に難攻不落と名を轟かせた城だけのことはあります。

  

061119gifu5歴代城主を説明する案内板(※クリックで拡大します)。
稲葉山城=岐阜城と聞けば、やはり司馬遼太郎の『国盗り物語』が思い出されます。
子供の頃、NHK大河ドラマ『国盗り物語』をリアルタイムで視て、子供心に戦国時代の歴史に初めて触れた感動を今でも覚えています。確か、斎藤道三を平幹二郎、織田信長を高橋英樹(「桃から生まれた・・・」よりずっと前。この信長役で高橋英樹は大ブレイクした)、濃姫を松坂慶子、藤吉郎を火野正平が演じていたのは、記憶に鮮明に残っています。

061119gifu6 斎藤道三は、油売りから僧となり、姓を得て武士になると、次々と仕官先を乗っ取り、ついに稲葉山城主となりました。その知略謀略から『美濃のまむし』と言われた、戦国下克上を体現したことで有名な人物です。しかし、最近では、その前半生は父・長井新左衛門尉のもので、親子2代を合わせた人物ではないかとの説が有力となっています。ちなみに、隠居後の『道三』の名は、「商人」「僧侶」「武士」の3つの人生を歩んだことにちなんでいるとのこと。
また、信長の才を見込んで、娘・帰蝶(濃姫)を嫁がせた事でも知られています。

今は、同じく司馬作品の『功名が辻』の舞台として、多くの観光客が訪れているようです。大河ドラマの最初の数回で舞台になった城として、記憶に新しいところです。

061119gifu7 道三は隠居し、家督を子の義龍(実の子ではない説あり)に譲ったものの不和となり、ついにその義龍に討たれてしまいます。その戦いに婿の信長は援軍を送りましたが間に合わず。。。後年、義龍の子・龍興を信長が追放し、稲葉山城改め岐阜城となりました。
写真は岐阜城の歴史の解説板(※クリックで拡大します)。

いよいよ、岐阜城の天守閣に登ります。

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百聞は一見に如かず。
この眺めで、いかにこの城が美濃を制するための重要な拠点であったかがよく理解できました。眼下に長良川が流れ、濃尾平野を一望できる大パノラマは圧巻。しばし息を呑んでしまいました。岐阜の名は「阜(おか)が岐(わか)れる」ところ、まさにそのままです。
『国盗り物語』の名に相応しい舞台と言えましょう。
雨も降り出し、お天気に恵まれなかったのが非常に残念でした。

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『長良川競技場』、征服 ヽ(`へ´)ノ 
こっちは征服したんですが。。。_| ̄|○ orz

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金華山を下山し、遅い昼食をとることに。
美濃・尾張といえば、問答無用で“八丁味噌”(゜▽゜)
公園内の茶屋で、まずは『みそおでん』と熱燗でちびりちびり。。。
食事ですが、ダンナは『いも田楽と菜めしセット』、私は『豆腐田楽と菜めしセット』を注文。
『みそおでん』の具のちくわが、魚っぽくて美味。豆腐、いももそれなりに美味しかったのですが・・・最初の頃は割とイケてたのに、いかんせん、八丁味噌味ばかりでしたので、味がくどくなってしまったうえに、だんだん胃もたれが・・・定食のおかずの量も多かったので、『おでん』は要らなかったのかも知れません。
まあ、これも旅のご愛敬ということで。。。(^^;

061119nobunaga0 腹ごしらえを済ませ、公園をぶらぶら。園内では秋の風物詩、菊作品展が開催されていました。
そういうときのお約束が、これ。信長と濃姫だそうで。
ちょっと、、、夢に出てきそう。。。 ((((;゜Д゜)))

  

最後に、信長の居館跡を訪ねました。061119yakata

 

 

 

 

入口の門のところに、またこんなもの↑が。。。(´д`)061119nobunaga3

居館跡の発掘調査から、いくつかの整地した土層と焼土面が確認されていることから、斎藤氏が当主だったころを含め、複数の城主による造成が行われていたことが推察されるそうです。
写真は居館跡の解説板(※クリックで拡大します)。

 

061119nobunaga2 通路は鍵型にに曲がっており、容易な敵の侵入を防ぐ構造となっています。信長はこの城を拠点に天下統一を目指し、『天下布武』の朱印を使用するようになったそうです。一説によれば、信長は清洲よりここ岐阜の地を好んだとも言われています。

 

『天下布武』を、この地から目指した信長。
壮大な野望の足掛かりとなった地を訪ね、あらためて自分の中の、「頂点へ」の思いが強まりました。
敗戦は、「死」を意味します、、、「終わり名古屋」といきましょう。

共に闘い、共に頂点へ。All_come
浦和レッズの「天下布武」を成し遂げましょう!

がんばりましょう、最後まで。

 

061119itagaki おまけ:
岐阜公園は、かの自由民権運動の旗手・板垣退助が、遊説中に暴漢に襲われ負傷したことでも知られ、顕彰の意を込めた銅像が建立されています。
パロディで、こういうネタがありますね。

問:「板垣退助が刺されたとき、何と言ったでしょうか?」

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2004/04/05

高天神城(静岡)

【高天神城(たかてんじんじょう) 静岡県小笠郡大東町:掛川駅より車で20分】 2004年4月5日 訪 

前日の天竜二俣城につづき、高天神城を訪ねてみた。

この城は、「凄まじい」の一言である。

今でこそ、田んぼや畑に囲まれたのどかな田園風景の中にある“小山”といった風情なのだが、山の中に一歩踏み込んだ時から、そこは“要塞”としての戦闘的な機能を見せていた。

この城には、一般的なイメージとしてある『城』の天守閣の優美さや荘厳さは持ち合わせていない。まさに実践的戦闘が行われた『山の要塞』としての跡が随所に残されている。小さな山ながら複雑に尾根と谷が入り組んでおり、その地形を巧みに取り入れた険しい登城路や搦手の尾根道、多数の曲輪や築かれている。
城と言うよりは『砦』のイメージが強く、鬨の声や兵達の怒号が聞こえてきそうな佇まいだ。さながら映画『ロード・オブ・ザ・リング』で出てくる要塞の日本戦国版といった感がある。今日の静穏さがかえって往時の凄まじさへの想像をかきたててくれる。圧倒されてしまった。

「高天神を制する者、遠江を制す」と言われたという。
武田と徳川の攻防の最前線となった城として、今川衰退後、徳川家康の支配下にあったが武田勝頼に落とされると、武田氏の遠江最大の拠点とされ、その折に本格的に整備されたそうだ。峻険さだけでなく緩やかさをも備えた地形の小山であるにもかかわらず、山の周囲の広さがかえって敵の包囲を困難にさせていたようである。その恵まれた立地と地形をさらに活かすように、山の中(城内)の構造は複雑そして堅牢に縄張りされていた。その軍事築城技術には感服である。

takatenjin 長篠合戦以降、徳川の攻撃にさらされた高天神城は、勝頼が後詰めの戦力を送ることができず兵糧が尽き陥落。家康はこれにて遠江を手中に収めたという。

戦いに夢破れた兵の霊を慰めるかのように、さわやかに晴れた山頂の曲輪跡に桜が静かに散っていた。

参考:学研『図説・日本名城集』

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2004/04/04

天竜二俣城(静岡)

【天竜二俣城(てんりゅうふたまたじょう) 静岡県天竜市:二俣本町駅より徒歩10分】 2004年4月4日 訪 

futamata2 ジュビロ戦の翌日、あいにくの雨日和。咲いた桜を散らすかのような雨空をうらめしそうに眺めながら、天竜浜名湖線にトコトコ揺られて、やって来ました天竜市。

天竜二俣城は、天竜川と二俣川の合流地点にあり、まさに要衝の地に築かれた城である。その所以か戦国時代に激しい争奪が繰り返された城として、また徳川家康の嫡男・信康の自刃の地としても知られている。

まず、立地の険しさから天然の要害の地であることにうなずかされた。眼下には天下の暴れ川として名を響かせる天竜川が流れている。こんなところから攻めるのはまず無理だ。しかしそんな難所を苦労を買ってまで(いや命を賭けてまで)攻めに来るのだから、戦国武将とは難儀な職業である(笑)。そして城内を見渡すと、いまでは天守台とわずかな遺構を残すのみとなった公園として整備されていた。futamata1

往時を偲ぶとき、ここが信濃・三河・駿河を制する重要拠点であり、斯波・今川・武田・徳川などの有力武将が覇権争いを繰りひろげた地となったことは想像に難くない。さらに武田勝頼は当時城主の徳川方を攻略するのに1ヶ月を要し、その後徳川家康が奪還の際も半年を要したほど難攻不落の要害であったこともよく理解できる。

園内の桜はまだ五分咲き・・・かつての激しい戦いの記憶に涙するかのように雨に濡れていた。

参考:学研『図説・日本名城集』

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