中山道中膝栗毛

2009/10/12

中山道中膝栗毛@10/12 完全踏破(^o^)v

皆さまに、謹んでご報告いたします。

本日11時46分。

ついに…ついに三条大橋まで歩いて辿り着きました!!!
中山道の旅、ついに完結です(つ;∀`)。

ご覧ください、中山道踏破を終え、三条大橋をバックに記念撮影におさまるコバトンの雄姿です。

都合1年10ヵ月、うち業務繁忙期による中断6ヵ月、実質28日の中山道の旅でした。
これもひとえに、全国十数名の弊サイト道中記読者の皆さまのご支援の賜物です。
本当にありがとうございました。

ただいま、帰路の車中です。もうすぐさいたまに帰ります。

あ…昨日のことは忘れましょう(汗;

簡単ですが、ご報告まで。

追記:
さきほど無事帰還いたしました。
レディースの皆さん、優勝おめでとうございます!
心よりお祝い申し上げます。

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2009/10/08

中山道中膝栗毛@いよいよ最終章

昨年1月、日本橋から歩き始めた中山道の旅も、ついに残り五十数㎞となりました。

20090921minoohmi

9月の連休、等々力での勝利を見届けた翌日、加納宿(岐阜市)へと向かい、そこからとぼとぼ歩いて西進、木曽三川を越え、関ヶ原を通り、ついに美濃国から近江国へと入りました(この溝の部分が国境です)。
現在、愛知川宿(滋賀県愛荘町)まで歩いています。

今週末の連休で、長かった中山道の旅に終止符を打ちます。
終点である京・三条大橋を目指して、残りの道程を一歩一歩踏みしめて参りたいと思います。

途中の道中記がまだ埼玉県内までしかご報告してないのに、旅の終わりを予告することとなり甚だ遺憾ではございますが(笑)、無事に三条大橋に到着いたしましたら、簡単にでもご報告させていただだきます。
全国約十数名のこの道中記の読者の皆さま、どうぞお楽しみに。

松本へ参戦されるサポの皆さま、わが家の分までサポートをお願いいたしますm(_ _)m
必勝を祈願して、歩かせていただきます。

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2009/04/11

中山道中膝栗毛@4/11中継録画

中山道中膝栗毛@4/11<br />
 中継録画
本日、藪原宿より出発し、ようやく江戸と京の中間地点を通過いたしました('◇')ゞ

しかし。

中山道中膝栗毛@4/11<br />
 中継録画


豊田まで歩いて行っては間に合いませぬ(爆)

電車で向かいますです、はい。


では、皆さま豊田でお会いいたしましょう!


カルトクイズ:
さて、写真の一里塚跡の碑は、どこの宿付近でしょう?

中山道中膝栗毛@4/11<br />
 中継録画

※京へ六十五里、江戸へ七十二里、です

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2009/04/10

中山道中膝栗毛@09/4/10 実況中継

中山道中膝栗毛@4/10<br />
 実況中継
豊田に歩いて行くには、今から行かねば…

 ♪はぁちじちょうどのぉ〜

が脳内に流れた、アナタは立派な華麗(笑)

どこを目指して旅立ったかは、、、待て次号(・∀・)

では皆さま、現地にてお会いいたしましょう!

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2009/01/28

中山道中膝栗毛@上尾宿~熊谷宿

この宿間を歩いてからもう1年が過ぎようとしています。
同じ季節が来て、「あっ!」と昨年を思い出した次第です(大汗;
せっかく歩いたのですから、亀の歩みの筆の遅さでも記録を残しておきたいと思います。
1年が経過して古いネタとなりましたが、前回(『与野~大宮宿~上尾宿』編)のつづきを書き記したいと思います。
このたびは行程30㎞近く、初めての長道中です。

【5宿目:上尾宿(あげおじゅく) 埼玉県上尾市 2008年2月2日 AM8:50ごろ 出発】
■天気(熊谷):薄曇
 最高気温:6.8℃ 平均風速:1.9m/s080202ageo1

前回の道中の終点だった、JR上尾駅前の県道164号線、まるひろ百貨店前の交差点からスタート。駅から桶川方面には、かつての宿場風情らしきものはほとんど残されておらず、時折思い出したように現れる“中山道”の道標と案内板だけが、かろうじてこの道の意味を示してくれていました。駅前の商店街のはずれにさしかかったところでは、延享年間 (1740年代)に建立された庚申塔に遭遇。郵便ポストと並立されている様子に隔世の感が漂います。
080202ageo2変化のない道をぶらぶらと上尾駅から小一時間も歩かないうちに桶川市の市境を通過。距離にして4㎞足らずですから、まぁそんなもんです。昔で言えば34丁(3.67㎞)だったそうですが、これは中山道では塩名田宿~八幡宿(27丁:2.91㎞)、板鼻宿~安中宿(30丁:3.24㎞)、洗馬宿~本山宿(30丁:3.24㎞)、八幡宿~望月宿(32丁:3.45㎞)につづき、5番目に短い宿間距離なのだとか。

【6宿目:桶川宿(おけがわじゅく) 埼玉県桶川市 2008年2月2日 PM9:45ごろ 訪】
■本陣1、脇本陣2、旅籠36軒(天保14年記録より)

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『立花町』バス停の木戸跡を過ぎてほどなく、往時を彷彿とさせる『武村旅館』に出会いました。日本橋からの道中で初めて出会った宿場関係の保存建物です。案内板を読むと、幕末の和宮降嫁の時代には、紙屋半次郎という人物が旅籠を営んでいたとのことで、当時のままの間取りが今も残されている貴重な建物です。
080202okegawa3

080202okegawa4 JR桶川駅を過ぎたところにも、古い建物がいくつか残されており、本陣跡(右写真)の門構えなどにも雰囲気が守られていました。ここは和宮の宿泊所にもなったところですが、現在敷地には明治天皇の行在所跡の石碑が建てられ、奥には以前の建物はなく一般住宅となっていました。
あまり知られていませんが、桶川宿には穀物問屋が多くあったそうで、さらには『桶川臙脂(えんじ)』と呼ばれる紅花栽培も盛んであったことから、上尾宿に近いながらも賑わいのある宿場だったそうです。その縁で、現在紅花は桶川市の花に制定されており、かつて宿場に繁栄をもたらしてくれた花の歴史を現代に伝えてくれています。
なお、中山道をはさんで本陣の向かい側には、休憩所を兼ねた観光案内所がありますので、お時間のある方は立ち寄られてみてはいかがでしょう。

080202kitamoto1 桶川宿を過ぎるとすぐに北本に入ります。
このあたり、宅地の区画の広大さに驚かされます。田舎と言って片付けるには広すぎて、そしてお屋敷のような立派な家構えが目を引きます。長年の風雪に耐えた巨大な防風林も多くみかけられ、この土地の裕福さが伝わってくるようです。
県道164号線を北本駅方面に進むと、『本宿』交差点に、“北本の 080202kitamoto2歴史”という案内板がありました。江戸時代初期はこの地が『本鴻巣村』という宿場であったこと、中山道の整備が進むと現在の鴻巣の地に宿場が移され、ここは“立場”(人馬の中継・休憩地点)のみとなったこと、その後この地が『本宿』と呼ばれるようになったことが『北本』の名の由来となったこと、などが書かれており、その傍らには“中山道北本宿”の碑が建っていました。現在の鴻巣宿への移転説は定かではありませんが、家康公の鷹狩り御殿が現在の鴻巣にあったためではないかとの説が有力視されています。080202kounosu1

30分ほど歩くと、鴻巣市に入ります。
ほどなく、『人形町』の地名が目に入り、街道沿いには多くの人形店が軒を連ねています。
鴻巣は、岩槻とならび人形工芸でその名を全国に知られています。その由来は、京都伏見の人形師が住み着いたという説と、日光東照宮修繕の折に人形師が多く住み着いたという説があるようです。

【7宿目:鴻巣宿(こうのすじゅく) 埼玉県鴻巣市 2008年2月2日 PM0:00ごろ 訪】
■本陣1、脇本陣1、旅籠58軒(天保14年記録より)

080202kounosu3記録にある旅籠の数の多さに驚かされますが、鴻巣と熊谷の宿間が四里六丁(約16㎞)と長かったため宿泊する旅人が多く、旅籠が栄えたようです。県道164号線沿いには、その名残か古い建物が点在していました。
『鴻巣駅入口』交差点の近くに本陣跡(右写真)があり、碑が建っています。この交差点付近が、鴻巣宿で一番賑わっていたとのこと。

『駅入口』交差点を渡ってほどなく、老舗の漬物屋『つけしん』 さんの店の前を通ったところ、驚きました。店内には、確かに漬物が並べられているのですが、とても漬物には似つかわしくないショーケースが一緒にあったので、思わず足を止めたのです。

080202kounosu4

その正体は・・・
以前、こちらのエントリ で話題になった『こうのすコロッケ』が、ここで製造・販売されていたのです。こんな巡り合わせを逃す手はないと、迷わず店内に。ショーケース内のコロッケはほぼ売り尽くされていたため、「こうのすコロッケ」と「すまいるメンチ」を各1個ずつ注文し、揚げあがるのを待ってアツアツを買い込み、近所の鴻神社に滑り込むように行き、いざ実食。
もうこれは・・・何とも滋味深く・・・説明できないので食べてみてください(ノ;д`)
また買いに行こうかと途中まで後戻りしたほどの美味しさでした。道中旅をしていなければ、きっと追加を買いに行ったことでしょう。
以前、このコロッケを扱っていた肉屋さんが都合により閉店したのですが、その味を惜しむ声が多かったため、『つけしん』さんがレシピと製法を引き継いだとのこと。すべて地元で仕入れた食材を使用した自信作だけのことはありました。後日、買い求めに行ったことは、言うまでもありません。

080202kounosu5 さて、コロッケ&メンチに後ろ髪を引かれる思いで(ノ;д`)、歩を進めます。
宿はずれの木戸があったという『加美』交差点で、長く付き合ってきた県道164号線に別れを告げ、Y字の分岐を左手方向に、県道365号線を吹上方面へと向かいます。
実は、ここから熊谷堤を抜け熊谷宿へと至る十数㎞の行程が、今回の難関だったのです。

080202kounosu6 多くの庚申塔などの石仏が、かつての街道筋の面影を見せてくれますが、途中、箕田(みだ)源氏(武蔵武士の元祖)のルーツとされる源宛(みなもとのあつる)や、その子孫で羅生門の鬼退治伝説のある渡辺綱(わたなべのつな)が祀られた氷川八幡神社があった他はこれと言った見所もなく、黙々と歩く修行が続きます。

080202kounosu7 箕田追分。右手は行田と忍(おし)方面、左は日光・館林方面への分岐点として往時は賑わっていたそうです。案内板には箕田源氏ゆかりの地であることや、かつての様子を表現した絵図などが掲示してありました。

粛々と吹上方面に歩むと、県道365号線は『前砂』交差点を右手に進みます。ほどなくJR吹上駅手前で高崎線を横断、中山道は踏切を渡ってすぐ、線路とNTTの間の細道を抜けていきます。その先で 久々に国道17号線に出会いました。しかしその再会も束の間、吹上駅前を通り、ほんの数百メートル進んだのちに、『吹上本町』交差点で左折、再び国道17号線に別れを告げます。
・・・・・・と、ここまでのわずか1㎞くらいの道程で、面白い道標を見かけました。

Annai_fukiage1

すべて手書き。テープやシールを貼った上から書き込まれているものはまだいいのですが、電柱に直書きしているものは、何と申し上げて良いのやら(笑)。方法論はともかく、丁寧に道案内をしてあげたいとの地元の人々の温かさが伝わってくるような、微笑ましい風景です(^^;。
080202fukiage1 道標に従って吹上市街を旧道沿いに進むと、『中山道 間(あい)の宿』の碑と案内板がありました。鴻巣宿と熊谷宿の宿間が長かったため、間の宿や立場が吹上にあったのもうなずけます。名物は足袋だったそうで、その足袋は、一大生産地であった隣の行田から運ばれて商われていたとのこと。荒川のウナギも名物だったとか。英泉が描いた『鴻巣宿』は、ここ吹上からの富士を描いたものだそうです(『岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望』)
中山道は、案内板の後方にある跨線橋を渡って続いていきます。

黙々と、ひたすらに荒川方面を目指して歩く道中が続きます。
何の変哲もない道中、心を和ませてくれたのは、ここでも個性的だった“道標”たちでした。

Annai_fukiage

このあたり住宅地ということもあって、「車に注意」との注意書きから「トイレ」のご丁寧な案内まで、手作り感たっぷり(笑)。堤までの道程も説明付で図解。堤の上の標識裏まで活用する徹底ぶりに頭が下がる思いがしました。正直この道案内には助けられましたので、鴻巣市には、ぜひ道標整備予算を確保して欲しいものです。

080202fukiage2 『権八のものいひ地蔵』から堤防を登ると、荒川の水面すら見えないほど広大な河川敷が眼前に拡がります。ここ熊谷堤は殺風景で単調な景色が延々と展開しているのみなのですが、「ああ、昔はこんな風景が多かったんだ」と、不思議とこの荒涼感に往時が偲ばれる思いがしました。途中、昭和22年のカスリーン台風で堤防が決壊したことを記す碑も建立されていました。
彼岸遠くに傾く陽を眺めながら、日没が近づいてきたことを感じました。すでに時刻は午後4:30。こんなところで真っ暗になられてはたまりません。昔も今も、この堤を通るのは日中に限ります。急ぎ歩を進めます。

080202kuge1 3㎞ほど堤を歩いたところで、街道は堤防を降りて久下(くげ)の集落に。重厚な蔵造りの家並みがいくつか残っており、ここが荒川の堤から続く街道筋だったことが見て取れます。旧道は右写真の奥にある地蔵尊の脇を通っていたそうですが、今は消失しているので、道を直進し、再び堤の上に登っていきます。

堤を少し歩いて、ほどなくして堤を降りると再び集落が見えてきま080202kumagaya1 す。集落の入口には『みかりや』という茶屋の跡(右写真の角地)がありました。当時、「しがらきごぼうに久下ゆべし」ともてはやされるほど、ここの茶屋では柚餅子(ゆべし)が名物で賑わっていたそうです。また、忍藩の殿様が鷹狩りに訪れるとこの茶屋で休息したため、“御狩屋(みかりや)”の名がついたとのこと。
案内看板を読んでいる間に、夜の帳が加速して降りて来ました。歩を進めるごとに暗くなっていきます。写真を撮るのも厳しい状態に。

熊谷堤を歩く頃から、大腿部の裏側にピリピリと痛みが襲ってきていたのですが、すっかり陽が落ちた頃には、まるで肉離れでも起こしたような激しい痛みとなりました。先を急ぎたいのに大幅にペースダウン。慣れない徒歩旅に今度は足裏や足指まで痛み出す始末。薄暗闇の中、痛みに落ち込みながらうつむき加減に歩いていると、そんな私を励ますかのような看板が目に飛び込んできました。
080202kumagaya2 『元荒川 ムサシトミヨ 生息地』
トゲウオ科トミヨ属の魚で、世界でもここ元荒川にしか生息していない絶滅危惧種の生息地。いつか訪れたいと思っていたのですが、この街道筋にあったとは望外の喜びでした。案内板を読むと、埼玉県の魚に制定されたのと、県の天然記念物に指定されたのが平成3年(1991年)と遅かったのが悔やまれますが、このわずかな生息エリアが今後も末永く守られることを願って止みません。080202kumagaya3

八丁の一里塚を過ぎて、熊谷の街の灯が少しずつ近づいて来ました。JR熊谷駅構内に間近な『第六中山道踏切』を渡り、国道17号線方面へ。今回の旅のゴール、熊谷宿はまもなくです。

【8宿目:熊谷宿(くまがやじゅく) 埼玉県熊谷市 2008年2月2日 PM6:00ごろ 着】
■本陣2、脇本陣1、旅籠19軒(天保10年記録より)

080202kumagaya4 国道17号線に入ると、一気に交通量、人通り、街の灯りが増え、今までの江戸の空間からタイムスリップして現世に戻ってきた気分に(笑)。いやはや、熊谷の街は都会です。
駅前の交差点からJR熊谷駅に辿り着いたのが、ちょうど午後6:00。休憩を除いて約8時間、約30㎞の道中でした。
これだけ歩けば、いろんなものに出逢えました。特に『こうのすコロッケ』と『ムサシトミヨ』の生息地に出逢えたことは大きな収穫でした。

初めての長距離行脚に頭も体も疲れ果て、高崎線のベンチシートに埋もれるように座り込んでしまいました。あんなに苦労して歩いた距離も、電車に乗ってしまえばほんの30分程度とはまさに隔世の感、茫然。しかしそんな呆気にとられた心地も、電車の揺れがゆりかご代わりとなって遠のいて、、、いつの間にかウトウトと、でした。

■2008年2月2日(土) 上尾宿~熊谷宿全行程
 ・距離:28.0㎞ 所要時間:8時間10分(うち、1時間程度休憩)
 ・全行程ルートマップは、
こちら
  全行程マップ右の『ルート再生』ボタンを押すと、ルートを「小僧」さんが一生懸命走ってくれます。
  ご自分の体重・年齢を入力すると、同行程の消費カロリーを計算してくれます。
  お試しください。

(次回:『熊谷宿~本庄宿』編につづく)

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2008/09/27

中山道中膝栗毛@9/27 本日の足跡

中山道中膝栗毛@9/27<br />
 本日の足跡
中山道中膝栗毛@9/27<br />
 本日の足跡

名古屋を目指して、歩いています。
 
瑞穂まで、あとどのくらいなのでしょう…
 
 
とりあえず、本日は奈良井宿投宿。
明日は、標高1200mの鳥居峠を越えて、名古屋へ向かいます。
 
では、瑞穂で、お会いいたしましょう。

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2008/08/15

中山道中膝栗毛@与野~大宮宿~上尾宿

ずいぶんと間が空いてしまいました・・・(`・ω・´)
真冬の話を真夏に書いて涼んだ気分になっています(汗;
現時点では、とうに碓氷峠を越え信濃国・岩村田宿(長野県佐久市)まで足を延ばしておりますが、道中記としてはググッと時を遡り、前回(『蕨宿~浦和宿~与野』編)のつづきを書き記したいと思います。

【JR与野駅(じぇいあーる よのえき) さいたま市浦和区 2008年1月27日 AM11:50】
■天気(東京):晴れ 最高気温:7.0℃ 平均風速:3.8m/s

ついに、「この先」を歩くことに。
080127yono1 前日に日本橋から蕨宿まで歩いたというのに、性懲りもなく歩きます。これから始まる長い旅への覚悟も全然無しに(笑)。
さすがに前日の疲れがあったのか、朝寝坊。昼前に天気の良さだけに誘われて、思いつきでのこの日の膝栗毛。手頃に距離を稼ごうと、上尾宿を目指すことに。
与野駅東口の中山道には、ご存じの方も多いでしょうが、写真のような立派なケヤキの大木があります。往時を偲べる佇まいです。

080127yono2 線路越しに、さいたま新都心の高層ビル群が見えてきたところで、橋の工事現場が見えてきます。かれこれ2年ほど前から実施されている大原橋の架替工事(当サイトでもご紹介しております)ですが、まだやっていました。実はこの橋の下付近には、かつて川口にある赤山城への交通を支えた『赤山街道』が通っていたようです。現在は鉄路で分断されていますが、線路の東西には現在でも『赤山通り』が残っています(数年前、赤山街道は実際巡りました)。工事完了が平成21年3月末だそうで・・・もう少し我慢が必要なようです。

080127yono3 三菱マテリアル前のケヤキ並木に何となく街道風情を掻き立てられますが、これは昭和42年の埼玉国体の際に植樹されたものとのこと。40年も経過すればこのような立派な街路樹となるものだと関心します。さて、この並木が途絶えたところに高台橋という小さな橋があり、そのたもとに小さな祠が建っています。地蔵菩薩像と不動明王像が祀られており、地蔵菩薩像は、叶わぬ恋に世を儚んで身を投げた女郎の供養のため、不動明王像はかつてこの地が刑場であったため、その供養塔と伝えられています。普段良く通る場所ですが、意外に知られていない話を学ばせてもらえるのも、街道巡りの奥深さです。

080127yono4ほどなく『さいたま新都心駅』に到着。この日、さいたまスーパーアリーナで『KICK OFF 2008』なるイベントをやっていましたが、あれこれ逡巡のうえ、パス。ついでに、かねてより訪れたかった蕎麦屋に行くことに。『高山村大使館 日曜庵』という屋号で、一見何の店かわかりにくいですが、概要は、蕎麦愛好家集団が設立したNPO法人が経営する、群馬県高山村のアンテナショップも兼ねた日曜日限定開店の蕎麦屋です(蕎麦粉は北海道・幌加内産等を使用しているようですが)。活動の中心団体は『さいたま蕎麦打ち倶楽部』で、ここを蕎麦打ちの“道場”にしているとか。毎年秋の『中央区民まつり』の出店を楽しみにしていますが、良い機会ですので“本丸”に乗り込んでみることに。ダンナは鴨もり(800円)、私はもりそば(500円)を注文(日曜庵HP写真参照)。丁寧に作られた蕎麦とつゆの味は実に素直。素朴さが舌に優しい逸品ですので、お近くにお越しの際はご賞味あれ。

080127yono5腹ごしらえを済まし、出発。駅近くの子豚マークでお馴染みのラーメン屋のメニュー板(写真)を見てニヤリ。そして氷川参道の入口を横目にてくてく北上。ほどなく吉敷町の交差点に差し掛かればそこは大宮宿の入口です。

 

【4宿目:大宮宿(おおみやじゅく) 埼玉県さいたま市 2008年1月27日 PM0:40ごろ 訪】
■本陣1、脇本陣9、旅籠25軒(天保14年記録より)

080127ohmiya1埼玉県最大の商都・大宮。本陣1軒、旅籠25軒とそれほど大きくない宿場でありながら、脇本陣が9軒もあったのは、何らかの理由で昔から身分の高い旅人に好まれていた場所なのでしょう。さて、現代。これだけ商業施設が集積していたら、往時の中山道の風情を求める方が無理、と言うものなのでしょうか・・・浦和以上に、いえ、もしかしたら中山道の宿場の中では最も往時の面影が木っ端微塵に砕かれた街なのでは、と思われます。ここが旧街道の宿場町だということを彷彿させてくれるものは、残念ながらほぼ皆無。強いて言えば、建物の区画が道に面して間口が狭080127ohmiya2いことくらいでしょうか。当世の街道筋には“リス”が生息している模様。沿道は心なしかオレンジ色に支配されています。首都圏のどこにでもある駅周辺の繁華街を淡々と歩いていくと、大栄橋のたもとを過ぎたあたりから「それらしい」立派な樹木が見受けられるようになります。
JR宇都宮線、東武野田線のガード(道路脇に歩道あり)をくぐって、さらに北進します。

080127ohmiya3大宮郵便局近くのCOCO'Sのところに、追分を示す道標がありました。
幕末の安政7年(1860年)に建てられたこの石碑には、「大山 御嶽山 よの 引又 かわ越道」と記され、中山道から西へ分岐する道の存在と行き先を示しています。COCO'Sと隣の魚屋さんの間に古道があって、与野方面に続いていたとのこと。このような道標は、東京や埼玉の街道沿いで、庚申塔と兼ねた形でよく見かけます。当時の関東では「大山詣で(伊勢原市)」や「御嶽山詣で(青梅市)」が盛んだったことを、今に伝えてくれています。なお、「引又=志木」のことだそうです(以上、現地案内板参照)。

080127ohmiya4 プラザノースとステラタウンという新興行政&商業地を右手に見ながら、県道164号線をさらに北上していくと、新幹線の高架手前に祠が。『猿田彦大神』と記された祠には、元禄10年の年号が刻まれた庚申塔が祀られていました。新しく拓けた街、新幹線、そして庚申塔・・・と時代のギャップを感じながら古に思いを馳せるのも街道巡りの楽しみのひとつ。よう やく中山道の雰囲気がこのあたりから感じられるようになりました。時代の波に呑まれることなく、大切に保存されている地元の方々に敬意を表します。

080127ohmiya5新幹線とニューシャトルを頭上に、そしてすぐ国道17号を地上で横切り、県道164号線をひたすら上尾方面に直進します。
国道17号線=中山道と捉えられがちですが、実は埼玉県内では東京都内ほど重複区間は長くありません。浦和の六辻交差点で交差して以来の国道17号でしたが、ここで一瞬出会ってのち、熊谷まで、またもしばしのお別れです。

080127ohmiya6中山道である県道164号線を上尾方面に向かいます。宮原あたりまで来ると、古刹があったり、大木があったり、庚申塔が多く残されていたりと、街道風情がぐっと増えてきます。ようやく歩く目的を思い出した気分になりました(笑)。ここは英泉が『中山道六十九次』の上尾宿で描いた加茂神社。さすがに上尾駅とさいたま市内を繋ぐ道路ですので、平成の世では人から車に往来物が変わり交通量多し。気をつけて道中を歩きます。

080127ageo1上尾市に入ったばかりのところ、馬喰新田バス停横に、立派な不動尊があります(写真の空き地左の石碑)。寛政12年(1800年)の刻印がありました。これは川越方面に向かう道標も兼ねていたようです。この少し先、下上尾バス停を過ぎたあたりが、上尾宿の入口だったと言われています。

080127ageo3当世、上尾の世情が1枚のポスターで表現されていました。
市民1人あたりの歳出額が全国782市の中で781番だからといって、行政サービスが劣悪なのかどうかは甚だ疑問ですし(人口が多ければ低くなる数字です)、住みやすさ安心度の順位を算出した基準を示さずに順位が低いよと言う数字だけ表示するのも眉唾もののような・・・
確かこれ、市長選告示前の選挙対策用ポスターみたいでした。地元ではバレバレなのでしょうが、候補者の名前が標記されて無いところがツボですね(笑)。

【5宿目:上尾宿(あげおじゅく) 埼玉県上尾市 2008年1月27日 PM3:30ごろ 訪】
■本陣1、脇本陣3、旅籠41軒(天保14年記録より)

080127ageo4現在の上尾駅前交差点周辺が、上尾宿の中心地となっていたようです。旅籠41軒という規模は大宮宿を大きく上回っています。当時は鉄製の常夜灯もあったそうで、裕福な宿場町であったことが偲ばれます。上尾まるひろ百貨店隣りにある、氷川鍬神社が宿場の中心だったようで、まるひろ百貨店付近が脇本陣、氷川鍬神社前を中山道をはさんだ正面に本陣があったそうです。
080127ageo5そこで、本陣があったという対面側にファインダーをふってみると・・・右写真のとおり、昔日の面影は残念ながら残されておりませんでした(つ;д`)
当時は、近くに岩槻道や川越道も通っていたため、いわゆる“飯盛り女”も多く、かなり人気があり繁盛した宿場町だったようです。

080127ageo6さすがに真冬ですので、午後3:30頃とはいえ陽の傾きは早いもの。もともと散歩がてらに歩き出しましたので、JR上尾駅前交差点で、この日の膝栗毛は終了。

何の気無しに中山道北上を始めましたが、この先、体力的にも経済的にも大変な思いをすることになろうとは、、、
たぶん、そんなことを最初から気付いていたら、歩き始めなかったでしょう、きっと。
人生、得てしてこんなもんでしょうな(笑)

 

■2008年1月27日(日) 与野駅~大宮宿~上尾宿全行程
 ・距離:11.1㎞ 所要時間:3時間40分(うち、30分程度休憩)
 ・全行程ルートマップは、
こちら
  全行程マップ右の『ルート再生』ボタンを押すと、ルートを「小僧」さんが一生懸命走ってくれます。
  ご自分の体重・年齢を入力すると、同行程の消費カロリーを計算してくれます。
  お試しください。

(次回:『上尾宿~熊谷宿』編につづく)

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2008/06/07

中山道中膝栗毛@6/7 実況中継

中山道中膝栗毛@6/7<br />
 実況中継

若干、録画モードです(笑)
本日、横川駅〜坂本宿〜軽井沢宿行脚中…
13:30ごろ、碓氷峠通過。
長野県、
キタ――――――(・∀・)――――――ッ!!!
現在、下界に降りて、旧軽井沢~軽井沢駅方面に進行中。
嗚呼、隔世の感w
自主トレは、つづく。

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2008/05/05

中山道中膝栗毛@5/5 実況中継

高崎より先、、、ついに禁断の、そして新たなる一歩を歩み出しました…

中山道中膝栗毛@5/5<br />
 実況中継 

 

雨の中、板鼻宿〜安中宿行脚中。

女の道は一本道。

シーズン中なれど、自主トレ、再開。

 

追記:
本日は、高崎宿~松井田宿(約20㎞)までといたしました。
ダンナの転勤もあったので、一旦高崎で止めておこうと思っていたのに、つ、つい、、、けさ起きて行きたくなったものですから(笑)
レッズの調子を上げるためにも、さらなるゴル裏での応援のパワーを増幅すべく、自主トレを兼ねて中山道を再び歩いてみました。
しかし、次回がいつになるのか、さらに続くのかは全然未定です。適当なところで止めてしまう可能性もあります。「遠征のついで」に行けるところではありませんし、なにより電車代が「もー大変なんですから」(三平師匠調)。

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2008/02/26

中山道中膝栗毛@蕨宿~浦和宿~与野

前回(『板橋宿~蕨宿』編)のつづきです。

実は、この区間を最初に歩いたことが今回の旅の発端になったことは、こちらにダラダラと書いておりますのでご参考までに。
この日最初の目的地は、蕨城址でした。

【蕨城址(わらびじょうし) 埼玉県蕨市 2008年1月14日 PM1:30 訪】 

080114warabi2 以前松山城のエントリの折にも触れましたが、蕨城は埼玉の代表的な中世の城として、忍城・河越(川越)城・岩槻城・松山城・鉢形城と並び称されています(『歴史ロマン・埼玉の城址30選』(西野博道編著・埼玉新聞社刊)より)。このたび、これらの名城で唯一訪れていなかった蕨城へ行くとあって、かなり楽しみにしていたのですが、、、
城址とされる蕨市民会館敷地内にあったのは、『蕨城址碑』と書かれた巨大な石碑と、堀跡が池としてわずかに残されていただけでした。残念。

080114warabi3隣接する和楽備神社へ。古くから八幡大神を祀り近隣の民の信仰を集めていたそうなのですが、明治後期に周辺の18社を合祀して、現在に至っているとのこと。境内に乃木将軍の像があったのですが、由来はわかりません(^^;
軽く参拝を済ませて、「ついでだから」と、中山道方面へ歩くこと数分・・・

【2宿目:蕨宿本陣(わらびじゅくほんじん) 埼玉県蕨市 2008年1月14日 PM1:50 訪】
■本陣2、脇本陣1、旅籠23軒(天保14年記録より) 

080114warabi1 日付は前後いたしますが、この道中記のはじまりは、まさにここから。千里(もないけど)の道も、「ここ」の一歩から、です。
本陣隣の『蕨市立歴史民族資料館』が祝日(成人の日)で休館だったので、辺りをひととおりみてのち、中山道を北方向へ目線を向けたダンナが一言、

 「(歩いて)帰るか。」

自宅までどのくらいの距離と時間があるのか深く考えず、歩き出しました。
なお、蕨本陣についてのお話は、前回のエントリをご参照ください。

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080114warabi4 何も考えていないので(笑)、結構キョロキョロ珍しそうに見物しながら歩きました。前回ご紹介した『木曾街道六十九次』のレプリカ舗装に視線を導かれていたら、歩道脇の何気ない側溝のフタに細かい芸が仕込んでありました。ご当地デザインの採用はマンホールではよく見られますが(当然マンホールも意匠に工夫あり)、このような細かいパーツにまで配慮している例は珍しいと思います。
また歩道も、わざわざ段差を設けなくとも舗装材質を車・歩道別に変えるだけで随分と見栄えが良くなるものです(最近、大宮の氷川参道も同様の整備をしています)。

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蕨宿は随所に宿場町としての演出と整備が施されています。これまで辿って来た距離や、次の宿駅までの距離が分かると、旅人にとっては有り難い限り。「くたびれた奴(東大前~駒込の件を参照)」にはなおさら有り難し(笑)。自治体や地元住民の取り組み姿勢が伝わってくると、訪れる者にとってもその熱意は心地よいものです。

080114sangakuin間もなく、進行方向右手に短い参道が目に入り、その先に大きな寺院が見えました。『三学院』というこのお寺は古くから多くの人々の信仰を集め、徳川家の庇護を受けていました。また真言宗僧侶の教育機関としての機能を果たしていたそうです。訪れた時は山門が工事中でしたが、境内には入れました。本堂をはじめ三重塔もあり、かなり立派なものでした。
なお門前にある子育て地蔵様をはじめ数体の地蔵様が鎮座されています。どれも霊験あらたかとのこと。

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中山道と国道17号の交差点、宿の北端にある北町交番もまた昔の商家風にデザインされていました(右写真)。この国道17号が横切る『錦町3丁目』交差点を渡って、中山道は第二中学校方面へ直進します。前回書き忘れましたが、蕨宿から熊谷宿に至るまでの長い間、何度か交差はするものの、中山道は国道17号としばし離れます。そのためでしょうか、蕨宿~浦和宿の間には街道筋の面影がわずかに残されていてなかなか楽しめます。この先は、道なりに浦和・辻方面に歩を進めます。

080114warabi9しばらく学校や住宅街が続いたのち、空中に巨大な構造物が見えてきました。 外環道です。これが見えてくれば、さいたま方面に向かっていることはまず間違いありません(地図を持たないので実は少々不安でしたw)。安心して直進を続けます。

 

080114tsuji1 外環道との大きな交差点(『辻2丁目』交差点)に、立派な一里塚跡の碑がありました。『辻の一里塚』と呼ばれていたそうで、日本橋から数えて5番目の一里塚だったそうです。
徒歩交通時代の一里塚の頭上に現代の高速度交通が走る・・・板橋同様、江戸と平成の隔世感を表している風景です。これも街道歩きの醍醐味のひとつではないでしょうか。

辻の町内に入れば、ここは浦和------。
と、あとになって気がつきました。
油断のあまり、私は大失態を犯してしまいました。
「地元」という気持ちが働いたのか、これより先の写真撮影をすっかり忘れてしまいました ((((;゚Д゚))) ガーン!
この先、後日撮り直したものが多く含まれています。どれがどれかは秘密です(笑)

さて、気を取り直して。

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※地図左上の再生ボタンを押すと、『辻2丁目』交差点~焼米坂ルートを再生します。

『辻2丁目』交差点から住宅街を道なりに歩き、『六辻水辺公園』が見えてきたところの車道がT字路になっていて(上左写真)、そこを右折してすぐ国道17号の『六辻』交差点がありますので、交差点を渡って道なりに進みます。
上右写真は、T字路から来た道を振り向いたところ。“中山道”の可愛い道標がありました。

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左写真:『六辻』交差点を渡ってすぐのところに、「中山道左折」の案内板あり。
右写真:左折地点。変形十字路ですが、“Y字”の左方向へ進みます。

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080114yamigomezaka2ほどなくして行く手に見えてみたのは、浦和最大の難所(?)である『焼米坂』。自転車で登り切るには少々きつい勾配です。当時、この坂には焼米を売る店が多かったのが名の由来だそうですが、正式には『浦和坂』というそうです。歩道橋の下には、坂の名を示す碑がありました。
今もこの“難所”に日々挑むのは、地域住民のほか、この脇にある南浦和小学校に登校する児童と、浦和方面へ下校する浦和南高生でしょう。ご苦労様です(笑)。

080114tsuki調神社が見えてきました。ここまで来たら自宅までは散歩圏内。素通りも何ですので、お参りをして小休止。この日は高校サッカーの決勝戦があったので、ベンチにしばし腰掛けながらワンセグ視聴。スイッチを点けたところで、流通経済大柏高が2点目をゲット。藤枝東にエールを送りながら、出発。

 

【3宿目:浦和宿(うらわじゅく) 埼玉県さいたま市 2008年1月14日 PM3:20 訪】
■本陣2、脇本陣3、旅籠15軒(天保14年記録より)

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ワシントンホテル前にある『中山道浦和宿』碑(同じものがセンチュリーホテル前にあります)。浦和宿は旅籠数を見ると規模は小さかったようですが、江戸に近いことから商業が発達していたため、規模以上に賑わっていたとのこと。『続膝栗毛』にある弥次喜多狂歌でも、
 「しろものを積みかさねしは商人のおもてうら和のにぎはひ」
と表されたようで、旅籠より商家が多かったことがうかがえます。

080114urawa3 その“にぎはひ”は、県庁通りを渡った中心市街地に、今も受け継がれています。しかし、昔日の面影は木っ端微塵に跡形もなく(ノ;д`)、カラフルな街並みへと変貌しています。大宮とならび、現代中山道の“渋滞の名所”と言っても過言ではないでしょう。わずかに残されているのは、関東十壇林(壇林=仏教の学問所)のひとつであった玉蔵院、江戸の頃から続いているうなぎの山崎屋くらいでしょうか(ちなみに調神社近くの満寿屋は明治21年創業)。勝手な想像ですが、玉蔵院の存在が、文教都市・浦和へと引き継がれたような気がします。

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歩き慣れた道の傍らにある、車止めのレリーフ。
かつてここが宿場であったことをアピール。これも、PRIDE OF URAWA。
右はおそらく調神社をモチーフにしているものと思われます。

ここまで来れば気も楽になりまして・・・

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いつもの「サ店」でお茶したり・・・ 

 

 

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いつもの「店」を冷やかしに行ったりしますw 

 

 

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『仲町』交差点。右折すると駒場スタジアム方面。往時はこのあたりが最も賑わっていたとか。交差点を渡った左手に本陣があったそうです。ここから新浦和橋の高架付近までの間には、古い建物をわずかに見ることができます。

 

080114urawa9 ご存じの方も多いかと思いますが、ちょっと先へと進んだ電器屋と酒屋の間に、こんな看板が。「ご当地」ならではのデザイン(^^)。看板の左肩に「2002 ワールドカップ決勝戦を浦和に」とありますが、大会が終わってすでに数年、降ろすにはあまりに惜しい看板とのことで残したものと勝手に妄想しています。夜間のライトアップ設備がそれを物語っているようです(笑)。

 

080114urawa7 常磐公園の入口にある、野菜売りの女性の像。夜中に遭遇するのはちょっとご勘弁願いたいところ(笑)。
冗談はさておき、、、隣にあった銘板の説明では、すぐ北側にある慈恵稲荷の社頭で、二と七のつく日に市が立ち、相当賑わっていたそうです。『二・七市』と呼ばれたこの市は、戦国時代から昭和の初頭まで開かれていたと記されています。中山道から常磐公園に続くこの道は現在『市場通り』と名付けられ、この像とともに往時を偲ぶ場所となっています。

080114urawa8その『二・七市』の市場跡となる、慈恵稲荷神社。
社頭は今では交通量が激しく、とても市など開けない状況となりました。市場の面影もありません。跡碑だけが、その歴史を静かに伝えています。

 

080114urawabashi 新浦和橋の高架をくぐりほどなく歩くと、浦和と北浦和を結ぶ浦和橋に。このあたりが宿外れだったとか。橋の下には、京浜東北線、宇都宮線、高崎線などが走り、まさに“埼玉の鉄道街道”。首都圏と東日本をつなぐ大動脈です。新幹線と埼京線も集積する大宮駅はまさに“東日本の延髄”と形容できます。アントニオ猪木に蹴りをかまされないよう注意が必要です。

080114kitaurawa1浦和橋を渡ると、北浦和の街に。橋を渡った交差点を右折すれば、駒場スタジアムへ・・・と、ここは県道65号線沿いに北上を続けます。開発の進んだ北浦和市街も、残念ながら全くと言っていいほどかつての街道筋を彷彿とさせてくれるものは残されておりません。狭い道を挟んだ沿道は、マンションや店舗がひしめき合うように並んでいます。 しかし、一本道を入ると、閑静で高級な住宅街となっています。浦高、市立高、本太中など学校が多いことがその閑静さを醸し出しているのかも知れません。

080114kitaurawa2浦和が野菜売りの女性像なら、現代の北浦和・中山道を象徴するものは、やはり「これ」ではないでしょうか。
傍目には賑わっているように見える『北浦和GINZAレッズ商店街』ですが、レッズのホーム機能が埼スタに移行してからは、めっきり客足が遠のいてしまったと、駅からタクシーに乗車すると運転手さんからそんな話をよく聞かされます。

北浦和から与野駅まではラストスパート。
ただ、ひたすら家まで歩くだけ、と淡々と歩いていたところ、、、
目の覚めるような看板が。

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何と申し上げて良いのやら・・・ww

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与野・針ヶ谷界隈には若い頃住んでいたので、懐かしさが漂います。あれからずいぶん経つのですが、当時の街並みや店が今もほぼ変わらずそこにありました。大原陸橋のたもとにある立派な庚申塔も健在。心ある地元の方によるお供え物がありました。

【PM4:40ごろ 一本松 着】

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大原陸橋からJR与野駅方面に少し進んだところにある『一本杉』の碑。碑銘が車道側にあるせいか、近所にお住まいでもお気付きの方は少ないのではないでしょうか。実はこれ、“仇討ち”の記念碑なのです。現在は傍らに小さな杉が植えられていますが、当時は大きな杉があったとのこと。維新前の文久4年(1864年)、ここで水戸藩家臣・宮本鹿太郎が、4年間追い続けた父親の敵・讃岐丸亀藩浪人・河西祐之助と果たし合い、見事本懐を遂げたそうです。この仇討ち話は、講談となり江戸などで上演されたそうですが、この事件の対応・処理費用25両は針ヶ谷村で持たされることとなり、村にとっては思わぬ出費に見舞われてしまったのが現実のようです(^^; また、あと数年河西某が逃げ切っていたなら、どのような事の顛末になっていたのでしょう・・・などと妄想するのはこのくらいにして。

陽も傾き、もはやここは“家路”のエリア。
ホッとした心持ちで途中夕飯の買い物を済ませ、無事帰宅。

しかし、、、この時。
この思いつきの散歩の終わりが「はじまり」だとは、夢にも思っていませんでした。

■2008年1月14日(祝) 蕨宿~与野駅全行程
 ・距離:8.2㎞ 所要時間:3時間10分(うち、40分程度休憩)
 ・全行程ルートマップは、
こちら
  全行程マップ右の『ルート再生』ボタンを押すと、ルートを「小僧」さんが一生懸命走ってくれます。
  ご自分の体重・年齢を入力すると、同行程の消費カロリーを計算してくれます。
  お試しください。

(次回:『与野~大宮宿~上尾宿』編につづく)

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