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2008/02/26

中山道中膝栗毛@蕨宿~浦和宿~与野

前回(『板橋宿~蕨宿』編)のつづきです。

実は、この区間を最初に歩いたことが今回の旅の発端になったことは、こちらにダラダラと書いておりますのでご参考までに。
この日最初の目的地は、蕨城址でした。

【蕨城址(わらびじょうし) 埼玉県蕨市 2008年1月14日 PM1:30 訪】 

080114warabi2 以前松山城のエントリの折にも触れましたが、蕨城は埼玉の代表的な中世の城として、忍城・河越(川越)城・岩槻城・松山城・鉢形城と並び称されています(『歴史ロマン・埼玉の城址30選』(西野博道編著・埼玉新聞社刊)より)。このたび、これらの名城で唯一訪れていなかった蕨城へ行くとあって、かなり楽しみにしていたのですが、、、
城址とされる蕨市民会館敷地内にあったのは、『蕨城址碑』と書かれた巨大な石碑と、堀跡が池としてわずかに残されていただけでした。残念。

080114warabi3隣接する和楽備神社へ。古くから八幡大神を祀り近隣の民の信仰を集めていたそうなのですが、明治後期に周辺の18社を合祀して、現在に至っているとのこと。境内に乃木将軍の像があったのですが、由来はわかりません(^^;
軽く参拝を済ませて、「ついでだから」と、中山道方面へ歩くこと数分・・・

【2宿目:蕨宿本陣(わらびじゅくほんじん) 埼玉県蕨市 2008年1月14日 PM1:50 訪】
■本陣2、脇本陣1、旅籠23軒(天保14年記録より) 

080114warabi1 日付は前後いたしますが、この道中記のはじまりは、まさにここから。千里(もないけど)の道も、「ここ」の一歩から、です。
本陣隣の『蕨市立歴史民族資料館』が祝日(成人の日)で休館だったので、辺りをひととおりみてのち、中山道を北方向へ目線を向けたダンナが一言、

 「(歩いて)帰るか。」

自宅までどのくらいの距離と時間があるのか深く考えず、歩き出しました。
なお、蕨本陣についてのお話は、前回のエントリをご参照ください。

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080114warabi4 何も考えていないので(笑)、結構キョロキョロ珍しそうに見物しながら歩きました。前回ご紹介した『木曾街道六十九次』のレプリカ舗装に視線を導かれていたら、歩道脇の何気ない側溝のフタに細かい芸が仕込んでありました。ご当地デザインの採用はマンホールではよく見られますが(当然マンホールも意匠に工夫あり)、このような細かいパーツにまで配慮している例は珍しいと思います。
また歩道も、わざわざ段差を設けなくとも舗装材質を車・歩道別に変えるだけで随分と見栄えが良くなるものです(最近、大宮の氷川参道も同様の整備をしています)。

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蕨宿は随所に宿場町としての演出と整備が施されています。これまで辿って来た距離や、次の宿駅までの距離が分かると、旅人にとっては有り難い限り。「くたびれた奴(東大前~駒込の件を参照)」にはなおさら有り難し(笑)。自治体や地元住民の取り組み姿勢が伝わってくると、訪れる者にとってもその熱意は心地よいものです。

080114sangakuin間もなく、進行方向右手に短い参道が目に入り、その先に大きな寺院が見えました。『三学院』というこのお寺は古くから多くの人々の信仰を集め、徳川家の庇護を受けていました。また真言宗僧侶の教育機関としての機能を果たしていたそうです。訪れた時は山門が工事中でしたが、境内には入れました。本堂をはじめ三重塔もあり、かなり立派なものでした。
なお門前にある子育て地蔵様をはじめ数体の地蔵様が鎮座されています。どれも霊験あらたかとのこと。

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中山道と国道17号の交差点、宿の北端にある北町交番もまた昔の商家風にデザインされていました(右写真)。この国道17号が横切る『錦町3丁目』交差点を渡って、中山道は第二中学校方面へ直進します。前回書き忘れましたが、蕨宿から熊谷宿に至るまでの長い間、何度か交差はするものの、中山道は国道17号としばし離れます。そのためでしょうか、蕨宿~浦和宿の間には街道筋の面影がわずかに残されていてなかなか楽しめます。この先は、道なりに浦和・辻方面に歩を進めます。

080114warabi9しばらく学校や住宅街が続いたのち、空中に巨大な構造物が見えてきました。 外環道です。これが見えてくれば、さいたま方面に向かっていることはまず間違いありません(地図を持たないので実は少々不安でしたw)。安心して直進を続けます。

 

080114tsuji1 外環道との大きな交差点(『辻2丁目』交差点)に、立派な一里塚跡の碑がありました。『辻の一里塚』と呼ばれていたそうで、日本橋から数えて5番目の一里塚だったそうです。
徒歩交通時代の一里塚の頭上に現代の高速度交通が走る・・・板橋同様、江戸と平成の隔世感を表している風景です。これも街道歩きの醍醐味のひとつではないでしょうか。

辻の町内に入れば、ここは浦和------。
と、あとになって気がつきました。
油断のあまり、私は大失態を犯してしまいました。
「地元」という気持ちが働いたのか、これより先の写真撮影をすっかり忘れてしまいました ((((;゚Д゚))) ガーン!
この先、後日撮り直したものが多く含まれています。どれがどれかは秘密です(笑)

さて、気を取り直して。

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※地図左上の再生ボタンを押すと、『辻2丁目』交差点~焼米坂ルートを再生します。

『辻2丁目』交差点から住宅街を道なりに歩き、『六辻水辺公園』が見えてきたところの車道がT字路になっていて(上左写真)、そこを右折してすぐ国道17号の『六辻』交差点がありますので、交差点を渡って道なりに進みます。
上右写真は、T字路から来た道を振り向いたところ。“中山道”の可愛い道標がありました。

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左写真:『六辻』交差点を渡ってすぐのところに、「中山道左折」の案内板あり。
右写真:左折地点。変形十字路ですが、“Y字”の左方向へ進みます。

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080114yamigomezaka2ほどなくして行く手に見えてみたのは、浦和最大の難所(?)である『焼米坂』。自転車で登り切るには少々きつい勾配です。当時、この坂には焼米を売る店が多かったのが名の由来だそうですが、正式には『浦和坂』というそうです。歩道橋の下には、坂の名を示す碑がありました。
今もこの“難所”に日々挑むのは、地域住民のほか、この脇にある南浦和小学校に登校する児童と、浦和方面へ下校する浦和南高生でしょう。ご苦労様です(笑)。

080114tsuki調神社が見えてきました。ここまで来たら自宅までは散歩圏内。素通りも何ですので、お参りをして小休止。この日は高校サッカーの決勝戦があったので、ベンチにしばし腰掛けながらワンセグ視聴。スイッチを点けたところで、流通経済大柏高が2点目をゲット。藤枝東にエールを送りながら、出発。

 

【3宿目:浦和宿(うらわじゅく) 埼玉県さいたま市 2008年1月14日 PM3:20 訪】
■本陣2、脇本陣3、旅籠15軒(天保14年記録より)

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ワシントンホテル前にある『中山道浦和宿』碑(同じものがセンチュリーホテル前にあります)。浦和宿は旅籠数を見ると規模は小さかったようですが、江戸に近いことから商業が発達していたため、規模以上に賑わっていたとのこと。『続膝栗毛』にある弥次喜多狂歌でも、
 「しろものを積みかさねしは商人のおもてうら和のにぎはひ」
と表されたようで、旅籠より商家が多かったことがうかがえます。

080114urawa3 その“にぎはひ”は、県庁通りを渡った中心市街地に、今も受け継がれています。しかし、昔日の面影は木っ端微塵に跡形もなく(ノ;д`)、カラフルな街並みへと変貌しています。大宮とならび、現代中山道の“渋滞の名所”と言っても過言ではないでしょう。わずかに残されているのは、関東十壇林(壇林=仏教の学問所)のひとつであった玉蔵院、江戸の頃から続いているうなぎの山崎屋くらいでしょうか(ちなみに調神社近くの満寿屋は明治21年創業)。勝手な想像ですが、玉蔵院の存在が、文教都市・浦和へと引き継がれたような気がします。

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歩き慣れた道の傍らにある、車止めのレリーフ。
かつてここが宿場であったことをアピール。これも、PRIDE OF URAWA。
右はおそらく調神社をモチーフにしているものと思われます。

ここまで来れば気も楽になりまして・・・

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いつもの「サ店」でお茶したり・・・ 

 

 

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いつもの「店」を冷やかしに行ったりしますw 

 

 

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『仲町』交差点。右折すると駒場スタジアム方面。往時はこのあたりが最も賑わっていたとか。交差点を渡った左手に本陣があったそうです。ここから新浦和橋の高架付近までの間には、古い建物をわずかに見ることができます。

 

080114urawa9 ご存じの方も多いかと思いますが、ちょっと先へと進んだ電器屋と酒屋の間に、こんな看板が。「ご当地」ならではのデザイン(^^)。看板の左肩に「2002 ワールドカップ決勝戦を浦和に」とありますが、大会が終わってすでに数年、降ろすにはあまりに惜しい看板とのことで残したものと勝手に妄想しています。夜間のライトアップ設備がそれを物語っているようです(笑)。

 

080114urawa7 常磐公園の入口にある、野菜売りの女性の像。夜中に遭遇するのはちょっとご勘弁願いたいところ(笑)。
冗談はさておき、、、隣にあった銘板の説明では、すぐ北側にある慈恵稲荷の社頭で、二と七のつく日に市が立ち、相当賑わっていたそうです。『二・七市』と呼ばれたこの市は、戦国時代から昭和の初頭まで開かれていたと記されています。中山道から常磐公園に続くこの道は現在『市場通り』と名付けられ、この像とともに往時を偲ぶ場所となっています。

080114urawa8その『二・七市』の市場跡となる、慈恵稲荷神社。
社頭は今では交通量が激しく、とても市など開けない状況となりました。市場の面影もありません。跡碑だけが、その歴史を静かに伝えています。

 

080114urawabashi 新浦和橋の高架をくぐりほどなく歩くと、浦和と北浦和を結ぶ浦和橋に。このあたりが宿外れだったとか。橋の下には、京浜東北線、宇都宮線、高崎線などが走り、まさに“埼玉の鉄道街道”。首都圏と東日本をつなぐ大動脈です。新幹線と埼京線も集積する大宮駅はまさに“東日本の延髄”と形容できます。アントニオ猪木に蹴りをかまされないよう注意が必要です。

080114kitaurawa1浦和橋を渡ると、北浦和の街に。橋を渡った交差点を右折すれば、駒場スタジアムへ・・・と、ここは県道65号線沿いに北上を続けます。開発の進んだ北浦和市街も、残念ながら全くと言っていいほどかつての街道筋を彷彿とさせてくれるものは残されておりません。狭い道を挟んだ沿道は、マンションや店舗がひしめき合うように並んでいます。 しかし、一本道を入ると、閑静で高級な住宅街となっています。浦高、市立高、本太中など学校が多いことがその閑静さを醸し出しているのかも知れません。

080114kitaurawa2浦和が野菜売りの女性像なら、現代の北浦和・中山道を象徴するものは、やはり「これ」ではないでしょうか。
傍目には賑わっているように見える『北浦和GINZAレッズ商店街』ですが、レッズのホーム機能が埼スタに移行してからは、めっきり客足が遠のいてしまったと、駅からタクシーに乗車すると運転手さんからそんな話をよく聞かされます。

北浦和から与野駅まではラストスパート。
ただ、ひたすら家まで歩くだけ、と淡々と歩いていたところ、、、
目の覚めるような看板が。

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何と申し上げて良いのやら・・・ww

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与野・針ヶ谷界隈には若い頃住んでいたので、懐かしさが漂います。あれからずいぶん経つのですが、当時の街並みや店が今もほぼ変わらずそこにありました。大原陸橋のたもとにある立派な庚申塔も健在。心ある地元の方によるお供え物がありました。

【PM4:40ごろ 一本松 着】

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大原陸橋からJR与野駅方面に少し進んだところにある『一本杉』の碑。碑銘が車道側にあるせいか、近所にお住まいでもお気付きの方は少ないのではないでしょうか。実はこれ、“仇討ち”の記念碑なのです。現在は傍らに小さな杉が植えられていますが、当時は大きな杉があったとのこと。維新前の文久4年(1864年)、ここで水戸藩家臣・宮本鹿太郎が、4年間追い続けた父親の敵・讃岐丸亀藩浪人・河西祐之助と果たし合い、見事本懐を遂げたそうです。この仇討ち話は、講談となり江戸などで上演されたそうですが、この事件の対応・処理費用25両は針ヶ谷村で持たされることとなり、村にとっては思わぬ出費に見舞われてしまったのが現実のようです(^^; また、あと数年河西某が逃げ切っていたなら、どのような事の顛末になっていたのでしょう・・・などと妄想するのはこのくらいにして。

陽も傾き、もはやここは“家路”のエリア。
ホッとした心持ちで途中夕飯の買い物を済ませ、無事帰宅。

しかし、、、この時。
この思いつきの散歩の終わりが「はじまり」だとは、夢にも思っていませんでした。

■2008年1月14日(祝) 蕨宿~与野駅全行程
 ・距離:8.2㎞ 所要時間:3時間10分(うち、40分程度休憩)
 ・全行程ルートマップは、
こちら
  全行程マップ右の『ルート再生』ボタンを押すと、ルートを「小僧」さんが一生懸命走ってくれます。
  ご自分の体重・年齢を入力すると、同行程の消費カロリーを計算してくれます。
  お試しください。

(次回:『与野~大宮宿~上尾宿』編につづく)

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コメント

やはり、庚申塔、いろいろなところに残っているのですね。
車での移動が多いせいで見過ごしていたのだと反省。

投稿: sat | 2008/02/27 19:32

はーい

浦和橋を渡ってすぐに右折した通り、通称グランド通りの
極々、駒場スタジアムに近い所に30年ほど前から5年間
住んでいました。当時幼稚園児だった下の娘が、今では、
幼稚園児の母親だもんねー。

♪思えば遠くに来たもんだー♪ではない、年とったもんだー♪

投稿: なごやのじーじ | 2008/02/27 23:29

お邪魔します。
私の街は通り過ぎてしまったのですね。
お声を掛けてくださればお茶でも差し上げたのに・・・
(と言っても我が家は線路の向こう側、浦和駅と駒場の真ん中辺ですが。)

浦和、北浦和と見慣れた街も歩いてみると大分違って見えるのですね。
花粉が納まったら歩いてみましょうか。
文中の本太中は我が母校です。ついでに元鴎の○沼氏もです。(憧れの先輩だったのに・・・)

投稿: おいわ | 2008/02/29 11:15

年度末ですね、、、ということで、お返事レスが大変遅れまして申し訳ございませんでしたm(_ _)m

@satさま
庚申塔ですが、大宮からどんどん増えていきます。県北から分譲住宅地区画のように密集したものも多く見かけました。今も大切に残されているところに、日本人の精神世界の一端が表れていますね。
あと10年もすれば、さいたま市内の沿道は「ニート塔」だらけになりそうな(違)

@なごやのじーじさま
グランド通りは、ワタシが住んでいた十数年前と比べてもあまり変わっていないのが驚きです。そういや市高前の通りだって、学校の門柱と表札が変わったくらいかも(笑)。建て替えた家は多々ありますが、あのあたりの環境は(良い意味で)安定しています。さすが高級住宅街。

@おいわさま
挨拶もなく通り過ぎて、ご無礼つかまつりました(^^;ゞ
見慣れた街も、通り過ぎる速度が違うだけでも全然違って見えますね。ふだん車で通っていて気付かぬところが歩くとよく観察でき、新たな発見があります。例えば上写真の税理事務所など(笑)。
本太中のご出身なんですね。若い頃、針ヶ谷の次にあのあたり(駒場1丁目)に住んでいました。もうすぐ本太中~市高の桜が咲きますね、、、その頃までに花粉がおさまっていますように。

投稿: nigoe | 2008/03/02 00:37

重いサイトですねぇ・・・
アタクシの98VAIOさんではまともに見れませんワ
パソコン買い換えたらまた来ますね ( ^^;

投稿: tocky | 2009/05/16 10:03

@tockyさま
コメントありがとうございました。

>アタクシの98VAIOさんではまともに見れませんワ
最近のFlashなどは、Win98では対応がツライものがありますものね。まぁそれを抜きにしても、当サイトは少々リンクを埋めすぎて少々メタボなところはありますが・・・(笑)
せっかく来ていただいたのに、ご不便をかけまして失礼しました。
折を見て軽量化を図ろうかと思っています。またその際よろしくお願いいたします。

投稿: nigoe | 2009/05/18 12:12

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