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2008年2月の11件の投稿

2008/02/26

中山道中膝栗毛@蕨宿~浦和宿~与野

前回(『板橋宿~蕨宿』編)のつづきです。

実は、この区間を最初に歩いたことが今回の旅の発端になったことは、こちらにダラダラと書いておりますのでご参考までに。
この日最初の目的地は、蕨城址でした。

【蕨城址(わらびじょうし) 埼玉県蕨市 2008年1月14日 PM1:30 訪】 

080114warabi2 以前松山城のエントリの折にも触れましたが、蕨城は埼玉の代表的な中世の城として、忍城・河越(川越)城・岩槻城・松山城・鉢形城と並び称されています(『歴史ロマン・埼玉の城址30選』(西野博道編著・埼玉新聞社刊)より)。このたび、これらの名城で唯一訪れていなかった蕨城へ行くとあって、かなり楽しみにしていたのですが、、、
城址とされる蕨市民会館敷地内にあったのは、『蕨城址碑』と書かれた巨大な石碑と、堀跡が池としてわずかに残されていただけでした。残念。

080114warabi3隣接する和楽備神社へ。古くから八幡大神を祀り近隣の民の信仰を集めていたそうなのですが、明治後期に周辺の18社を合祀して、現在に至っているとのこと。境内に乃木将軍の像があったのですが、由来はわかりません(^^;
軽く参拝を済ませて、「ついでだから」と、中山道方面へ歩くこと数分・・・

【2宿目:蕨宿本陣(わらびじゅくほんじん) 埼玉県蕨市 2008年1月14日 PM1:50 訪】
■本陣2、脇本陣1、旅籠23軒(天保14年記録より) 

080114warabi1 日付は前後いたしますが、この道中記のはじまりは、まさにここから。千里(もないけど)の道も、「ここ」の一歩から、です。
本陣隣の『蕨市立歴史民族資料館』が祝日(成人の日)で休館だったので、辺りをひととおりみてのち、中山道を北方向へ目線を向けたダンナが一言、

 「(歩いて)帰るか。」

自宅までどのくらいの距離と時間があるのか深く考えず、歩き出しました。
なお、蕨本陣についてのお話は、前回のエントリをご参照ください。

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080114warabi4 何も考えていないので(笑)、結構キョロキョロ珍しそうに見物しながら歩きました。前回ご紹介した『木曾街道六十九次』のレプリカ舗装に視線を導かれていたら、歩道脇の何気ない側溝のフタに細かい芸が仕込んでありました。ご当地デザインの採用はマンホールではよく見られますが(当然マンホールも意匠に工夫あり)、このような細かいパーツにまで配慮している例は珍しいと思います。
また歩道も、わざわざ段差を設けなくとも舗装材質を車・歩道別に変えるだけで随分と見栄えが良くなるものです(最近、大宮の氷川参道も同様の整備をしています)。

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蕨宿は随所に宿場町としての演出と整備が施されています。これまで辿って来た距離や、次の宿駅までの距離が分かると、旅人にとっては有り難い限り。「くたびれた奴(東大前~駒込の件を参照)」にはなおさら有り難し(笑)。自治体や地元住民の取り組み姿勢が伝わってくると、訪れる者にとってもその熱意は心地よいものです。

080114sangakuin間もなく、進行方向右手に短い参道が目に入り、その先に大きな寺院が見えました。『三学院』というこのお寺は古くから多くの人々の信仰を集め、徳川家の庇護を受けていました。また真言宗僧侶の教育機関としての機能を果たしていたそうです。訪れた時は山門が工事中でしたが、境内には入れました。本堂をはじめ三重塔もあり、かなり立派なものでした。
なお門前にある子育て地蔵様をはじめ数体の地蔵様が鎮座されています。どれも霊験あらたかとのこと。

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中山道と国道17号の交差点、宿の北端にある北町交番もまた昔の商家風にデザインされていました(右写真)。この国道17号が横切る『錦町3丁目』交差点を渡って、中山道は第二中学校方面へ直進します。前回書き忘れましたが、蕨宿から熊谷宿に至るまでの長い間、何度か交差はするものの、中山道は国道17号としばし離れます。そのためでしょうか、蕨宿~浦和宿の間には街道筋の面影がわずかに残されていてなかなか楽しめます。この先は、道なりに浦和・辻方面に歩を進めます。

080114warabi9しばらく学校や住宅街が続いたのち、空中に巨大な構造物が見えてきました。 外環道です。これが見えてくれば、さいたま方面に向かっていることはまず間違いありません(地図を持たないので実は少々不安でしたw)。安心して直進を続けます。

 

080114tsuji1 外環道との大きな交差点(『辻2丁目』交差点)に、立派な一里塚跡の碑がありました。『辻の一里塚』と呼ばれていたそうで、日本橋から数えて5番目の一里塚だったそうです。
徒歩交通時代の一里塚の頭上に現代の高速度交通が走る・・・板橋同様、江戸と平成の隔世感を表している風景です。これも街道歩きの醍醐味のひとつではないでしょうか。

辻の町内に入れば、ここは浦和------。
と、あとになって気がつきました。
油断のあまり、私は大失態を犯してしまいました。
「地元」という気持ちが働いたのか、これより先の写真撮影をすっかり忘れてしまいました ((((;゚Д゚))) ガーン!
この先、後日撮り直したものが多く含まれています。どれがどれかは秘密です(笑)

さて、気を取り直して。

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※地図左上の再生ボタンを押すと、『辻2丁目』交差点~焼米坂ルートを再生します。

『辻2丁目』交差点から住宅街を道なりに歩き、『六辻水辺公園』が見えてきたところの車道がT字路になっていて(上左写真)、そこを右折してすぐ国道17号の『六辻』交差点がありますので、交差点を渡って道なりに進みます。
上右写真は、T字路から来た道を振り向いたところ。“中山道”の可愛い道標がありました。

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左写真:『六辻』交差点を渡ってすぐのところに、「中山道左折」の案内板あり。
右写真:左折地点。変形十字路ですが、“Y字”の左方向へ進みます。

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080114yamigomezaka2ほどなくして行く手に見えてみたのは、浦和最大の難所(?)である『焼米坂』。自転車で登り切るには少々きつい勾配です。当時、この坂には焼米を売る店が多かったのが名の由来だそうですが、正式には『浦和坂』というそうです。歩道橋の下には、坂の名を示す碑がありました。
今もこの“難所”に日々挑むのは、地域住民のほか、この脇にある南浦和小学校に登校する児童と、浦和方面へ下校する浦和南高生でしょう。ご苦労様です(笑)。

080114tsuki調神社が見えてきました。ここまで来たら自宅までは散歩圏内。素通りも何ですので、お参りをして小休止。この日は高校サッカーの決勝戦があったので、ベンチにしばし腰掛けながらワンセグ視聴。スイッチを点けたところで、流通経済大柏高が2点目をゲット。藤枝東にエールを送りながら、出発。

 

【3宿目:浦和宿(うらわじゅく) 埼玉県さいたま市 2008年1月14日 PM3:20 訪】
■本陣2、脇本陣3、旅籠15軒(天保14年記録より)

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ワシントンホテル前にある『中山道浦和宿』碑(同じものがセンチュリーホテル前にあります)。浦和宿は旅籠数を見ると規模は小さかったようですが、江戸に近いことから商業が発達していたため、規模以上に賑わっていたとのこと。『続膝栗毛』にある弥次喜多狂歌でも、
 「しろものを積みかさねしは商人のおもてうら和のにぎはひ」
と表されたようで、旅籠より商家が多かったことがうかがえます。

080114urawa3 その“にぎはひ”は、県庁通りを渡った中心市街地に、今も受け継がれています。しかし、昔日の面影は木っ端微塵に跡形もなく(ノ;д`)、カラフルな街並みへと変貌しています。大宮とならび、現代中山道の“渋滞の名所”と言っても過言ではないでしょう。わずかに残されているのは、関東十壇林(壇林=仏教の学問所)のひとつであった玉蔵院、江戸の頃から続いているうなぎの山崎屋くらいでしょうか(ちなみに調神社近くの満寿屋は明治21年創業)。勝手な想像ですが、玉蔵院の存在が、文教都市・浦和へと引き継がれたような気がします。

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歩き慣れた道の傍らにある、車止めのレリーフ。
かつてここが宿場であったことをアピール。これも、PRIDE OF URAWA。
右はおそらく調神社をモチーフにしているものと思われます。

ここまで来れば気も楽になりまして・・・

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いつもの「サ店」でお茶したり・・・ 

 

 

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いつもの「店」を冷やかしに行ったりしますw 

 

 

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『仲町』交差点。右折すると駒場スタジアム方面。往時はこのあたりが最も賑わっていたとか。交差点を渡った左手に本陣があったそうです。ここから新浦和橋の高架付近までの間には、古い建物をわずかに見ることができます。

 

080114urawa9 ご存じの方も多いかと思いますが、ちょっと先へと進んだ電器屋と酒屋の間に、こんな看板が。「ご当地」ならではのデザイン(^^)。看板の左肩に「2002 ワールドカップ決勝戦を浦和に」とありますが、大会が終わってすでに数年、降ろすにはあまりに惜しい看板とのことで残したものと勝手に妄想しています。夜間のライトアップ設備がそれを物語っているようです(笑)。

 

080114urawa7 常磐公園の入口にある、野菜売りの女性の像。夜中に遭遇するのはちょっとご勘弁願いたいところ(笑)。
冗談はさておき、、、隣にあった銘板の説明では、すぐ北側にある慈恵稲荷の社頭で、二と七のつく日に市が立ち、相当賑わっていたそうです。『二・七市』と呼ばれたこの市は、戦国時代から昭和の初頭まで開かれていたと記されています。中山道から常磐公園に続くこの道は現在『市場通り』と名付けられ、この像とともに往時を偲ぶ場所となっています。

080114urawa8その『二・七市』の市場跡となる、慈恵稲荷神社。
社頭は今では交通量が激しく、とても市など開けない状況となりました。市場の面影もありません。跡碑だけが、その歴史を静かに伝えています。

 

080114urawabashi 新浦和橋の高架をくぐりほどなく歩くと、浦和と北浦和を結ぶ浦和橋に。このあたりが宿外れだったとか。橋の下には、京浜東北線、宇都宮線、高崎線などが走り、まさに“埼玉の鉄道街道”。首都圏と東日本をつなぐ大動脈です。新幹線と埼京線も集積する大宮駅はまさに“東日本の延髄”と形容できます。アントニオ猪木に蹴りをかまされないよう注意が必要です。

080114kitaurawa1浦和橋を渡ると、北浦和の街に。橋を渡った交差点を右折すれば、駒場スタジアムへ・・・と、ここは県道65号線沿いに北上を続けます。開発の進んだ北浦和市街も、残念ながら全くと言っていいほどかつての街道筋を彷彿とさせてくれるものは残されておりません。狭い道を挟んだ沿道は、マンションや店舗がひしめき合うように並んでいます。 しかし、一本道を入ると、閑静で高級な住宅街となっています。浦高、市立高、本太中など学校が多いことがその閑静さを醸し出しているのかも知れません。

080114kitaurawa2浦和が野菜売りの女性像なら、現代の北浦和・中山道を象徴するものは、やはり「これ」ではないでしょうか。
傍目には賑わっているように見える『北浦和GINZAレッズ商店街』ですが、レッズのホーム機能が埼スタに移行してからは、めっきり客足が遠のいてしまったと、駅からタクシーに乗車すると運転手さんからそんな話をよく聞かされます。

北浦和から与野駅まではラストスパート。
ただ、ひたすら家まで歩くだけ、と淡々と歩いていたところ、、、
目の覚めるような看板が。

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何と申し上げて良いのやら・・・ww

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与野・針ヶ谷界隈には若い頃住んでいたので、懐かしさが漂います。あれからずいぶん経つのですが、当時の街並みや店が今もほぼ変わらずそこにありました。大原陸橋のたもとにある立派な庚申塔も健在。心ある地元の方によるお供え物がありました。

【PM4:40ごろ 一本松 着】

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大原陸橋からJR与野駅方面に少し進んだところにある『一本杉』の碑。碑銘が車道側にあるせいか、近所にお住まいでもお気付きの方は少ないのではないでしょうか。実はこれ、“仇討ち”の記念碑なのです。現在は傍らに小さな杉が植えられていますが、当時は大きな杉があったとのこと。維新前の文久4年(1864年)、ここで水戸藩家臣・宮本鹿太郎が、4年間追い続けた父親の敵・讃岐丸亀藩浪人・河西祐之助と果たし合い、見事本懐を遂げたそうです。この仇討ち話は、講談となり江戸などで上演されたそうですが、この事件の対応・処理費用25両は針ヶ谷村で持たされることとなり、村にとっては思わぬ出費に見舞われてしまったのが現実のようです(^^; また、あと数年河西某が逃げ切っていたなら、どのような事の顛末になっていたのでしょう・・・などと妄想するのはこのくらいにして。

陽も傾き、もはやここは“家路”のエリア。
ホッとした心持ちで途中夕飯の買い物を済ませ、無事帰宅。

しかし、、、この時。
この思いつきの散歩の終わりが「はじまり」だとは、夢にも思っていませんでした。

■2008年1月14日(祝) 蕨宿~与野駅全行程
 ・距離:8.2㎞ 所要時間:3時間10分(うち、40分程度休憩)
 ・全行程ルートマップは、
こちら
  全行程マップ右の『ルート再生』ボタンを押すと、ルートを「小僧」さんが一生懸命走ってくれます。
  ご自分の体重・年齢を入力すると、同行程の消費カロリーを計算してくれます。
  お試しください。

(次回:『与野~大宮宿~上尾宿』編につづく)

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2008/02/25

何と申し上げて良いのやら・・・

ネタなのか、何だかわかりませんが。

 『平山衝撃!カズさん逮捕された?』(スポニチ)

カズさんに何と申し上げて良いのやら・・・
勘違いした平山に、何て言ったら良いのやら・・・
 #記事を読む範囲では、平山は「え?」と言っただけのようですが(^^;

そう言えば、二十数年前の“ロス疑惑”で同姓同名(漢字違う)の彼がタイーホされた日、夏目雅子さんが亡くなったことを思い出しました。そのニュースはこの事件のニュースにかき消されそうになり、ちょっと悲しい思いをした記憶があります。

そんなことを覚えているワタシ、とっくに夏目雅子さんの歳より長生きできています。
感謝しなくちゃですね。 

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2008/02/23

中山道中膝栗毛@2/23 実況中継

本日、本庄宿〜高崎宿間行脚中…

中山道中膝栗毛@2/23<br />
 実況中継

神流川通過。

群馬県、

キタ――――――(・∀・)――――――ッ!!!

自主トレは、つづく。

追記:
午後4時40分ごろ、高崎宿の宿外れまで歩いて、自主トレは「とりあえず」完了いたしました。
今、帰りの高崎線から書いています。
ご声援、誠にありがとうございましたm(_ _)m

道中記はいずれ、また、その、、、いつかな?(笑)

追記その2:
無事帰宅しまして、デザイン、戻しました。
携帯の管理画面で変なところを「ポチッと」押してしまいまして、、、
驚かれた方、読みづらかった方、大変失礼いたしましたm(_ _)m。

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2008/02/21

やめてください

やめてください、『東アジア選手権』なんて。

やめてください、選手を傷つけるのは。

やめてください、スタジアムに政治や国情を持ち込むのは。

やめてください、露骨なジャッジは。

やめてください、すぐにでも日本の選手団は帰国してください。

 

安田が蹴られて負傷退場、その後遠藤がチャージを受けて倒れたのを見た時から、試合の行方が恐ろしくなって十数分ほど試合を観ませんでした。
その後、再び観戦するも、蹴り上げられた加地がタッチライン外にうずくまり、競り合った相手に啓太が喉輪を当てられ・・・途中を観ずとも事態は変わっていませんでした。

唯一の頼りの審判も『北の笛』。
ありえないジャッジに翻弄されるだけでなく、暴力的な試合を演出する有様。

昨年のACLの闘いで、私たちは「アジアがいかに厳しいか」ということを学びました。
激情的な相手の挑発に乗らない冷静さも身につけました。
しかし、昨夜の試合は、その度を超えています。

私は政治向きの話や断定的な表現は好まないのですが、今回はどうやら避けられそうにもありません。
さらに相互理解を拒む話もしたくはないのですが、埋めても埋めても埋まらない溝を、自らの手でさらに深く掘ろうとする人々がいる限り、日本がどう改善と歩み寄りに努めても相手にその気がないのなら、、、と思うと、脱力感と諦観に襲われてしまいます。

90年代に江沢民胡錦涛が推進した愛国教育を受けた中国の若者たち。屈託のない表情で発煙筒や日の丸を燃やし物を投げるさまを見て、中国当局だって“反日感情”に名を借りた“反政府感情”であることは充分自覚していると思います(そのガス抜きのための愛国教育であるとの見方が多いですし)。
一党独裁の国にありがちな、すり替えられた「反日本」主義。
北朝鮮については、もう言わずもがなです。
まあ客観的に表現すれば、現在の中国の国情を世界に晒したとも言えるでしょう。

昨夜の中国vs日本戦は、対戦相手も、審判も、観客も、すべてが自国の不満と怒りの捌け口として日本を“血祭り”にあげんとしているような、そういう作為を感じざるを得ませんでした。

ただひとつ、『時間』だけが日本の味方でした。

もう「意味のない」というよりも、「国際親善に貢献しない」「選手とサポーターの安全が保障されない」大会は辞退してもいいと思います。
毅然とした態度を示すことが、サッカーを通じたアジア全体の健全な発展につながると思いませんか?>協会会長さん

追記:
良かった・・・安田は大丈夫なようです
ウサギと妄想会話しているくらいですから、、、ってをい、大丈夫か?(´∀`)

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2008/02/20

『彼』に何が起こったか?

最近、驚いています。
この選手のブログ、今年になってもう5回も更新しています。
弊ブログの更新頻度を凌ぐ勢いです。

昨年のエントリを読むと、

 2007/03/01  10:30 「いよいよ開幕です。」

の、次のエントリが、

 2007/12/29  19:01 「いよいよオフ開幕です。」

という調子。
きっと、2008年は、

 「あけましておめでとう」から「良いお年を」

へ一気に飛躍してくれるのでは、と期待しておりましたが・・・

オフ期間に5回の更新、しかもグアムからの更新とは!!!
一体、彼に何があったのでしょう、、、逆に心配になったりします。

でも。
グアムキャンプエントリを読んでいくうちに安心いたしました。
「心を入れ替える」なんて殊勝な、妙に慣れないことをやっているのかと思ったら、な~んだ、、、変わっていないようです。

続きを読む "『彼』に何が起こったか?"

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2008/02/14

市川崑監督、逝く

2008年2月13日。
日本映画界の巨匠、市川崑監督が亡くなられました。
90歳を過ぎてもなお旺盛な製作意欲をみせ、その情熱からみせる壮健さから、「まだまだ新しい作品が観られる」ものだと期待しておりました。しかし、ご高齢でしたので、「もしも・・・」の覚悟も心の隅には確かにあったのですが。。。

ついに、お別れの時を迎えてしまいました。

子どもの頃から、私の心を今でも捉えて離さない“金田一シリーズ”。
奥様の和田夏十さんと手がけられた筋書きもさることながら、市川作品が醸し出す独特の映像世界は、戦前~戦中~戦後を生き抜いた人間でなければ描けないリアリティと重厚さがあり、金田一シリーズの映像は、その最たるものでした。

もうひとつ、子どもの頃好きだった『木枯らし紋次郎』。
大衆娯楽ドラマでありながら、軽いチャンバラ剣劇ではなく、飾りのない実にリアルな殺陣と映像描写が当時話題を呼んだものです(この流れで映画『股旅』映画を製作、共同脚本が谷川俊太郎)。

かたや。
数多くの文学作品を映画化しつつ、そうかと思えば、「記録映画を超えた芸術映画(?)」で論争を呼んだ『東京オリンピック』を手がけたり、『竹取物語』のようなSF映画を作ってみたり、ムツゴロウ先生・畑正憲と『子猫物語』を監督したり、黒鉄ヒロシのマンガ『新選組』を紙人形で撮ったりと・・・
「この監督の作風は、これ」
と形容し難い、これほど多彩でつかみどころのない映画監督はそうそういないのではないでしょうか。
そんな才能を敬愛・崇拝するファンは数知れず、、、最近では映像美で知られる鬼才・岩井俊二監督が『市川崑物語』という映画を製作したほどです(先日、見逃してしまい残念)。
※2/17追記:
嬉しいことに、スカパー!が2/24(日)に放映を決めてくれました!
『市川崑物語』に引き続き、『犬神家の一族 2006』も連続放送されます。

昨年、新都心のMOVIXで観たセルフリメイク版『犬神家の一族』、これが遺作となってしまいました。さらにこの映画が封切られる前に、ロケ地となった上田の北国街道を訪れたのも、今にして思えばなんという偶然だったのでしょう。

そして、昨年秋にスカパーやNHK-BSで市川崑特集が組まれて集中放映されていたのも、何かしらの“暗示”だったのでしょうか(こちらは幸運にも、鑑賞できました)。

日本の映画界は、計り知れない喪失感に包まれていることでしょう。
ファンとしては、本当に残念で寂しい限りです。
謹んで、市川崑監督のご冥福をお祈り申し上げます。

さらば、昭和のアバンギャルド。

※2/17追記:
昨夜、BS朝日で『どら平太』(2000年)を久々に観ました。
山本周五郎の『町奉行日記』を黒澤明、木下恵介、小林正樹、そして市川崑の“四騎の会”で共同企画・脚本化したものの頓挫し、約30年の年月を経て市川崑のメガホンによってようやく映画化が実現した作品です。
80歳代半ばの作品とは到底思えない、モダンでスタイリッシュな作風にあらためて感服。
役所広司が・・・カッコ良すぎて困ります(笑)。

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2008/02/13

中山道中膝栗毛@板橋宿~蕨宿

前回(『神田明神~板橋宿』編)のつづきです。

【1宿目:板橋宿(いたばしじゅく) 2008年1月26日 PM0:55ごろ 訪】
■本陣1、脇本陣2、旅籠54軒(天保14年記録より)

080126itabashi1 国道17号の『板橋3丁目』交差点を渡ると、そこは板橋宿。中山道六十九次最初の宿場町。東海道の品川宿、日光街道の千住宿、甲州街道・内藤新宿と並び『江戸四宿』のひとつされています。当初は江戸からあまりに近いので泊まり客が少なく、沿道の宿や店は商売あがったりだったそうですが、徐々に江戸の近さが幸いし、庶民の盛り場として、また近隣にあった加賀藩下屋敷の侍たちの歓楽の場として、大いに栄えるようになったとか。
板橋宿は、京に近い方向(北側)から『上080126itabashi2宿(現・本町)』『仲宿(現・仲宿)『平尾宿(現・板橋)』の3宿に分かれていたそうで、旅籠の件数からも、かなり大規模な宿駅だったことが想像できます。

商店街にはいたるところにウサギが。『ラッピー』と呼ばれるこのマスコットの名の由来は、「ラッキー」+「ハッピー」=『ラッピー』なのだそうです。商売熱心なラッピーは、ゲートの上だけでなく、それぞれの店先でも道行く客を出迎えてくれています。

080126itabashi3

商店街を歩き出して間もなく、朱塗りの山門の観明寺が見てきます。板橋宿の寺として多くの人々の信仰を集めたそうです。その道沿いの入口には、寛文元年(1661年)建立の庚申塔で、青面金剛像の彫られたものとしては都内最古のものとのこと。

080126itabashi5 平尾宿から仲宿に向かう中山道の街並み。下町の風情そのもの。「あっ!鳥だ!」「あっ!ヒコーキだ!」「あっ!タケチャンマンだ!」というセリフが聞こえてきそうです(笑)。両宿の間に王子新道が通っています。その『旧中山道中宿』交差点の角の喫茶店で昼食&休憩(店の名は忘れましたが、昭和の喫茶レストラン風のお店。ハンバーグステーキを注文しましたが、懐かしくて美味しいでした)。

40~50分ほどの休憩の後、行脚再会。
080126itabashi7沿道左手に、ひっそりと立つ案内板が目に入りました(クリックで 拡大)。幕末の蘭学者・高野長英が、幕府の政治批判の罪で囚われていた小伝馬町牢屋敷火災の折の「切り放し」で脱獄、ここ板橋宿の医師で門人だった水村玄洞宅に1日かくまわれていたそうです。「その後、北足立郡尾間木村に住む同門で実兄の高野隆仙宅に人をして逃れさせた」との一文を読み、以前、赤山街道巡りをした時に見かけた、あの高野家離座敷のことだったのだなぁ、と感じ入りました(国道463号・浦和美術専門学校の裏手あたりにあり。私が訪れた当時は復元前でした)。

080126itabashi8 あれこれよそ見をしながらタラタラ歩いていたら、肝心なものを見過ごしてしまいました。
『板橋宿本陣跡』。
あとで調べたら、辛うじて撮影した、この写真の右側にあるスーパー『ライフ』が本陣跡だったとのこと。
 _| ̄|○ orz...

080126itabashi9

080126itabashi10 いわゆる“板橋”の名の由来となった、石神井川に架かる『板橋』。日本橋から二里二十五町三十三間(10.642㎞)の里程を示す道標がありました。当時はこの橋の前後が最も賑わっていたそうです。橋を渡ると『上宿』となります。
橋上からは首都高が見えました。江戸と平成の時代が同居する、感慨深い風景です。

080126itabashi11

上宿は、かつての賑わいからするとずいぶん静かになったのではないでしょうか。人通りも商店も少なくひっそりとしていました。
明治の世に変わり、文明開化の象徴である鉄道整備による板橋駅の開業が、人馬の宿継ぎ機能で栄えた板橋宿に少なからず影響を与えたことがうかがえます。
右写真は、街道筋の交番。今もなお宿場町としての風情を醸し出そうとの配慮が、地元への愛着を感じさせてくれます。

080126itabashi12

交番のすぐ隣にある『縁切榎』。読んで字の通りの意味ですので、皇女・和宮が14代将軍・家茂に降嫁の折、ここを通過する際には、菰を被せて隠したとのエピソードがあります。
元々の木は少し移動したところにあったそうで、現在の榎は3代目と言われています。

 

080126itabashi13先を歩くとほどなく、環状7号線に当たります。板橋宿はだいたいこのあたりまでだったそうです。環七の高架をくぐって、さらに道なりに『泉町』交差点へと進み国道17号と再合流し、その先は志村坂上までひたすら北上します。

 

080126ichirizuka1

 

 

 

 

 

 

080126ichirizuka2 都営三田線・志村坂上駅に近づくにつれ、交通量の激しい国道の現代的な沿道風景を一変させる巨木と森のような塚に目を惹かれます。ここが『志村一里塚』と呼ばれる中山道3番目の一里塚。なんと今でも国道を挟んだ両側に、見事な一里塚が残されています(右写真:反対側、上り線の一里塚)。日本の交通史上貴重な史跡として、街道の歴史の重みを今に伝えてくれています。

【PM2:40ごろ 清水坂入口】

080126shimurasakaue 少し北に進んだ『志村坂上』交差点に、交番があります。この交番と『みずほ銀行』の間にある細道が中山道です。この先に、江戸の中山道の難所だった『清水坂』があります。
ここで再び国道17号を離れます。

 

080126sshimizuzaka1

沿道は主に住宅街となっていますが、今も大小の庚申塔や道標が大切に残されています。右写真は庚申塔と追分の道標が併設されているもの。向かって左側の細い道標正面には、「寛政四年 是より大山道ならびにねりま川こえ(川越)みち」とあり、向かって右側の庚申塔側面には「是ヨリ富士大山道 練馬江一里 柳沢(西東京市)江四里 府中江七里」と彫られているのが今でもわかります。江戸の頃は富士講大山講が盛んで、特に『大山詣で』は江戸の庶民の人気が高かったと言います。ここから大山へつづく道があったのだと思うと、遙か昔の街道の面影に思いを馳せることができます。

080126sshimizuzaka2

清水坂は、日本橋を発って最初の難所として有名でしたが、京へ上る方向へ歩く場合、途中大きく曲がるカーブにより、中山道で唯一「右手」に富士山を眺望できる名所としても有名だったそうです。昭和30年代までは旧街道の面影を残していましたが、地下鉄三田線の開通などにより、現在はその姿を変えてしまいました。しかし、今も残る急坂は昔日を物語っています。京方面には下り坂で楽ですが、江戸方面に向かう旅人には長い登り坂で、その大変さを偲ぶことができます。

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左写真:清水坂を下ったところにある三叉路を、右折してさらに坂を下ります。
右写真:都営三田線のガードをくぐり、国道17号方面へ向かいます。

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国道17号『志村3丁目』交差点手前で中山道は合流します(右写真)。
歩道橋を渡って、さらに複雑怪奇なルートを辿って旅はつづきます。

 

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歩道橋を渡って、すぐ下の赤いカラー舗装の部分が旧道(上地図のピン図示の道)なのですが、いかんせんものの数十メートルで環状8号線に横切られ「行き止まり」になっています。短くてもいちおう通過しました。
環八の向こうにつづきの中山道(上右写真)が延びていましたので、『志村3丁目』交差点の横断歩道を渡って、国道17号に並行した裏筋となる“つづきの中山道”を通り、『志村坂下』交差点手前で、再び国道17号と合流します。
清水坂~志村坂下のルートはこちら↓

080126shimurasakasita『志村坂下』交差点を過ぎたところで、ようやく「日本橋から15㎞」のキロポスト標に遭遇しました。新河岸川を渡るまで、国道17号をひたすら歩きます。

 

 

080126shingashigawa 新河岸川を渡って、すぐ川沿いの道へと右折し、国道17号としばし別れます。大きなパチンコ屋が目印となります。そのパチンコ屋の建物に沿って廻るように、左折→また左折と曲がり、国道17号に並行するように北上します。

 

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パチンコ屋の裏手にあった板碑。板碑とは、鎌倉~室町時代に、親の供養や自分の後生供養などのために建てられた石製の“卒塔婆”のこと。ここには、破片なども合わせてお祀りしてあるそうです。最近の発掘調査でも、この一帯では鎌倉~室町時代の「まち」の跡が確認されているそうで、板碑には文明9年(1477年)、文明17年(1485年)、明応5年(1496年)、大永(1521~1527年)の年号を読み取れるものがあり、由緒の古さに驚かされます。最近まで子供の“はしか”に霊験があると信仰されていたそうです。

080126funato6 そろそろ荒川越えか・・・と思ったところに、新幹線&埼京線の高架が見えてきました。『第一硝子』の建物の向こうの高架下で道が突き当たるので右折し、住宅地を抜けて、堤防の坂路を登ります。

 

080126funato8荒川・舟渡側の堤防より、かつて戸田の渡船場のあったあたりの彼岸を見渡します(JR鉄橋下流側)。此岸の河川敷は『荒川戸田橋サッカー場』です。
いよいよ江戸に別れを告げ、荒川を渡ります。
実は、戸田橋を歩いて渡るのは初めてだったりします(笑)。

【PM3:40ごろ 戸田橋通過】

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埼玉県、キタ━━━━━(゚∀゚)━━━━━ッ!!!!

 

080126todabashi4 実はこの先も、フクザツな道を辿ります(笑)。
戸田橋の橋詰めにある交番脇の堤防坂路を下ります。つまり戸田橋の部分だけ国道17号を通っただけで、再び旧道へ戻る、というわけです。

 

080126toda1交番から200mほど坂を下った坂路の途中に、『中山道戸田渡船場跡』の碑がありました。資料に拠れば、この渡しは天正年間(1573~1591年)よりあったとされています。江戸時代になり中山道が整備されたことで、交通の要衝として、そして幕府公認の河岸場として賑わっていた当時の様子が目に浮かぶようです。
明治になり、中山道の交通量が増えたことで木橋が建設され(明治8年:1875年)、『戸田の渡し』はその永い歴史における役目を終えました。

080126toda2渡船場碑の右下には、『水神社』が祀ってありました。ご神体は岩。社殿はありません。創建年は不明ですが、水神様として、川岸に住む人々の氏神様として信仰を集めていたようです。昔は、その年の初物の胡瓜を水神社にお供えし、その後荒川に流してからでないと泳げなかった、という風習があったとか。

日没が近づいてきました。渡船場の下、真っ直ぐに北上する細い道が旧中山道。道を急ぎます。

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080126toda5『川岸ミニパーク』前を通ってさらに進むと、菖蒲川に突き当たり、道が途絶えました(上左写真)。ここまで順調に中山道の原道線形上を辿って来られたのですが、この先、下戸田あたりの中山道は、国道17号の『本町』交差点付近まで残念ながら失われています。代わりに『川岸橋』を渡り(上右写真)、『田辺三菱製薬』脇の道路を北上します。オリンピック通りの1本手前の角(右写真の、赤色の軒の中華料理店)を左折し、さつき通りという商店街を通って、再び国道17号に合流します。
板橋区・志村3丁目交差点~戸田市・川岸3丁目交差点のルートはこちら↓

080126toda6ここから先は、蕨宿の入口までひたすら歩きます。何の変哲もない国道風景ですので、集中して歩けます。ここで一気に距離と時間を稼ごうとしたのですが・・・

 

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こんなものを見つけてみたり、、、

 

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こんなものを見つけては、興奮しておりました(笑)。

【2:蕨宿(わらびじゅく) 2008年1月26日 PM4:40ごろ 訪】
■本陣2、脇本陣1、旅籠23軒(天保14年記録より)

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だんだんと陽が落ちて焦ってきたところに、ようやく蕨宿の入口を示す碑が見てきました(注:写真中のモデルさんは本文とは関係ありません)。
宿場の雰囲気を演出するような木戸風のゲートも整備されていて、良い道標となっています。
江戸から数えて2番目の宿場。未だ狭080126warabi3い道の様子が、かつて街道筋であったことを物語っています。

歩道には、歌川広重と渓斎英泉の合作として有名な『木曾街道六十九次』のレプリカが描かれています。かなり夕暮れが迫ってきた折にて、このような写真となりましたorz...
ちなみに写真は鴻巣宿の浮世絵。全作チェックをする余裕もなく、本陣を目指します。。。

【PM4:50ごろ 蕨宿本陣 着】

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080126warabi6本陣は、地元の有力者・岡田氏が代々務めていたそうです。公家や大名が宿泊した記録が、内部の展示ケースの木板に書き込まれていました。意外にも肥前・佐賀、肥前・小城、豊後・岡などの九州の大名の名もありました。東海道に比べ「川止め」が少なかったことから、旅程を計画しやすかったことがうかがえます。
皇女・和宮の江戸降嫁の折や、明治天皇の大宮氷川大社参拝の折も休憩所として利用されたようです。
なお、ここに隣接して『蕨市立歴史民族資料館』という立派な施設がありますので、時間のある方は、こちらも訪れて蕨宿の歴史に触れてみてはいかがでしょう(戸田寄りに別館もあり)。

・・・・・・と、ここで、写真撮影するには限界な時間となりました。
みるみるうちに夜の帳が降りてきました。
日本橋を出発した当時の予定は、

 「(与野の)おうちまで帰ろう」

だったのですが、残り10㎞、、、_| ̄|○ orz...
2週間前に、ここから自宅までは踏破済みでしたので、道半ばではありますが、この日の旅は蕨宿で終わることにしました。

たった1日の徒歩の旅を3回に分けて長々とお送りしまして、大変失礼いたしましたっ!(笑)

■『板橋宿~蕨宿』ルートのおさらい
(再生ボタンを押すと、ルートを辿ります。)
※国道17号『清水町』~『泉町』交差点間は、国道東側の裏筋を通ります。
 地図ソフトが、実際通った道を認識してくれませんでしたorz...

■2008年1月26日(土) 日本橋~蕨宿全行程
 ・距離:20.3㎞ 所要時間:6時間40分(うち、40分程度休憩)
 ・全行程ルートマップは、
こちら
  全行程マップ右の『ルート再生』ボタンを押すと、ルートを「小僧」さんが一生懸命走ってくれます(笑)
  ご自分の体重・年齢を入力すると、同行程の消費カロリー計算をしてくれます。
  お試しください。

(次回:『蕨宿~浦和宿~与野』編につづく)

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2008/02/12

うぃあー的『眼力トレーニング』

チームは昨日(2/11)、グアムキャンプに出発しました。
いよいよ今シーズンに向けてのチームづくりが、本格的に始まりました。

さて、われらサポーターも、シーズンインに向けた自主トレを本格化する必要があります。
現在のところ、不肖ワタクシは只今中山道行脚で足腰を鍛えている最中(2/10現在、本庄宿まで踏破)ではございますが、まだまだ足りません。中年の体には、さらなるトレーニングを要します。

年々低下するものは、体力だけではありません。
「観察力」ならびに「判断力」に対するスピードです。
特にオフサイド判定などは、審判より正確に判断する必要性が高い場合があります。

日々のトレーニング、これこそ肝要です。

そこで。
大切なのは『眼力』です。
ここで、“うぃあー的眼力”をちょっと試してみませんか?

下記リンクを「ポチッとな」と押してから、質問の内容に10秒以内にお答えください。

続きを読む "うぃあー的『眼力トレーニング』"

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2008/02/07

魅力ある『広告』

この本、すでにお読みになった方も多いかと思います。

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『携帯版レッズプレス』に掲載の“ひとコママンガ”をベースに、試合ごとの新聞形式(『アカヒ新聞』)で編集されています。笑いアリ、涙ナシ、ようやくふさがった心のカサブタを引っ剥がされるような話(爆)もふんだんに盛り込まれ、激闘の2007年シーズンを的確に表現した、古沢優先生渾身の作品です。

で。
ワタシはまだ全部読んでないんですが(さっき須原屋で買ってきたばかりなもんで/笑)、ものの十数分で読了した部分があります。
それは、

 各見開き左ページ下の広告欄

です。
まだ読んでない方も多くいらっしゃると思いますので、内容を書くのは差し控えたいと思います。
ほんのちょっとだけ、ワタシが心惹かれた広告をご紹介しますと・・・

  • P5:行ってみたいなぁ
  • P21:これ買ってから、『totoBIG』買ったら・・・
  • P29:人類の未来への崇高なる精神
  • P41:マジでワタシのも直して欲しい
  • P45:説得力バツグン
  • P51:近所だし、つい、行ってしまいそう・・・
  • P65:スーパーは近いのか?
  • P67:今年もブンブン飛ばしそう、、、いやいや(^^;

ベタベタ宣伝文句を書き飾ることのない、「直球ストライク」なコマーシャルメッセージに、消費者のココロは“ワシ”づかみされること必定です。(笑)

皆さまの「お気に入り」は、見つかりましたか?

追記:
巻末の『あとがき』の日付年、なんだか違うような気がするのですが・・・(つд⊂)ゴシゴシ...

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2008/02/05

中山道中膝栗毛@神田明神~板橋宿

前回(日本橋~神田明神編)のつづきです。

【2008年1月26日 AM11:00ごろ 神田明神 発】

11時すぎに慌てて神田明神を発ち、中山道(本郷通り)をすたこら歩くこと数分・・・

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右手に、こんなものが見えてきました(笑)。
ちょうどこの日(1月26日)は、岡田ジャパンの初陣・チリ戦の日。この頃、ビルの中は準備と対応で大忙しだったのではないでしょうか。

そんな協会を横目に、本郷通りを北上します。

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本郷3丁目あたりから、赤煉瓦の塀が延々と続きます。ご存じ・東京大学本郷キャンパスの敷地と建物が見えてきます。何故か身の引き締まる思いで(笑)歩いていると、東大のシンボル・赤門が。

【AM11:20ごろ 東京大学 赤門前】

080126tokyou1ここは、加賀藩・前田家の上屋敷がありました。11代将軍・家斉の娘・溶(やす)姫が前田家に嫁した時にこの赤門が建てられたとのこと。国指定重要文化財。教育学部、学士会館、三四郎池、薬学部等の最寄りの出入り口になります。
さすがは観光地、赤門をバックに記念撮影する人の姿も。特に受験シーズンとあって、地方から上京してきた風の女子高生グループが、湯島天神参拝の帰りに寄ったのでしょうか、「合格祈願」のお守り代わりに携帯で写真を撮りまくっていました。東大を目指しているかどうかは不明ですが(^^;、ガンバレ受験生!

080126tokyou2東大の前から『さいたま』の文字を見ると、元気づけられました。しかし、旅はまだはじまったばかり。さいたまは遙かなり。
赤門を過ぎ、言問通り(『本郷弥生』交差点:右写真)を渡ると、弥生キャンパスの農学部正門があります。その前がT字路交差点となっていますので、中山道(国道17号)はこの交差点の酒屋の角を左曲がりに進路を取ります。当時、ここにはかつて『追分一里塚』があり、中山道最初の一里塚だったそうです。直進すれば岩槻街道(日光御成道)、左に曲がれば中山道の道標となっていたとのこと。

080126tokyou3 右写真は、農学部前の交差点を渡った中山道の入口から、農学部方面を撮ったもの(左手が岩槻方面、正面が東大農学部、右手が日本橋方面、手前方面が中山道、となります)。
なお、この写真左手角にある酒屋さんは、宝暦の頃からの創業で、当時から酒屋と両替商を営まれていたそうです。

080126komagome2ほんの少し中山道を進んだ、本郷税務署界隈。本郷通りの喧騒とはがらりと変わり、住宅と小さな商店が混在した静かな佇まいとなっています。

 

 

080126komagome1現在向丘1丁目のあるこのあたり、旧町名は『駒込東片町』と呼ばれていたそうです。前文の内容を含めた解説が、この案内板にありました(右写真。クリックで拡大します)。その最後の一文にあった川柳に、思わずうなづくワタシ。

 くたびれた 奴が見つける 一里塚

080126sengoku『八百屋お七』の墓のある円乗寺、東洋大学の前を通ると、中山道は、白山通りと合流し、巣鴨まで広々とした道路を進みます。また道路の下には都営三田線が走っており、このあたりは、ちょうど『千石』駅付近です。
ここまで歩いている間に、会社の上司やら同期やら後輩やら数人の知人宅があるのですが、今日は先を急ぐ旅、木枯らし紋次郎じゃござんせんが(笑)、孤独な旅人は、どこにも寄らずにひたすら歩きます。ご無礼容赦のほどを、、、m(_ _)m

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久々にキロポストに遭遇。まだ6㎞・・・ww。
白山通りの表情は、いわゆる都心の一般国道そのもの。幹線道路として当然交通量が多く、車優先の道路整備がなされています。街道筋の面影は微塵もありません。

【PM0:05ごろ JR巣鴨駅 通過】

神田明神からちょうど1時間で、JR巣鴨駅前通過。電車だとわからない距離感が、歩くと違う尺度で実感できます。(神田から)「意外に近い」ものだなぁ、と驚きました。
真性寺前から白山通り(国道17号)を離れ、地蔵通りに入ります。

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また来てしまった、、、_| ̄|○ orz...
デジャヴかいな。

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高岩寺(とげぬき地蔵尊)の狭い境内は、例によって参詣の人々で埋め尽くされていました。境内横の公衆トイレで休憩していると、すぐ近くにある、カレーうどんの有名店『古奈屋』本店には、ちょうど昼時とあって行列がずらり。まぁ、私的には、ここで並ばずともアトレ上野や大宮そごうの支店ですぐに食べられるし・・・といった考えですがいけませんか?(^^;

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相も変わらぬ賑わいを見せる、地蔵通り商店街。善光寺などでもそう思いましたが、ご先祖様が築いてくれた門前町の店々は、時代を超え子々孫々の代に至ってもなお“老舗”として栄える偉大な財産なのだなと感心させられます。それもひとえに、日本人の信心深さの賜物であり、この文化が日本の平和を象徴しているのでしょう。

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商店街の北端、都電荒川線・庚申塚駅近くにある『猿田彦大神』(庚申塔)。庚申塔では一般的に、神道では猿田彦神、仏教では青面金剛像を祀っています。新しい時代のものは「庚申塔」の文字のみが彫られている傾向にあるようです。庚申塔および庚申信仰について詳しくはこちら(Wikipedia)。
庚申塔は全国的に分布しているはずなのですが、割に関東には多く残されているように080126sugamo6感じられます。街道筋の道標(塔の脇に道案内が彫られていることが多い)としての機能も有していたからかも知れません。

先へ進みましょう。都電荒川線・庚申塚駅の踏切を渡ります。東京で見る路面電車の駅の風景に新鮮さを覚えます。

 

080126sugamo7と、、、ここで奇跡が!!!
踏切を渡り、地蔵通りにつづく庚申塚通りに入ったばかりの場所。向こうからチャリに乗った中学生くらいの男子数名(右写真中央)が近づいてきたのですが、何やら唄っていました。そしてすれ違いざまに、その唄の歌詞をハッキリと耳にとらえたのです。

 ♪世界に 魅せつけろ 俺たちの誇り~

 (゜∀゜)flair

ダンナと私は、驚いて思わず少年たちの方向に顔を向けました。
チャリで走り去った彼らの後ろ姿を見送りながら、ダンナと「おー!おー!」と、言葉を忘れて感動してしまいました(笑)。まさに「東京の中心で、うぃあーが唄う」。

【PM0:45ごろ JR板橋駅 通過】

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この付近に、新撰組局長・近藤勇の供養塔 がありましたが、寄らずに先を急ぎます(局長スマソ!)。
都内、特に板橋区内は、『中山道』の表記が多く、割に迷わずに歩くことができます。こうして歩いていると、自治体ごとの『中山道』の位置づけや、地域振興の要素としての力の入れ具合が目に見えてわかります。

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板橋宿の入口まで、距離を稼ぐために歩きます。
そんな道中に、“浦和”の文字が見えると、つい嬉しくなります。
細い車道が通った商店街なのですが、板橋区内では、随所に『中山道』の表記をしてくれています。

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080126itabashi4首都高・中央環状線(C2)が、行く手の上空を斜めに横切っています(すぐ近くに板橋JCTあり)。これに沿った下道は再び国道17号。しかしここで国道17号には戻らずに、来た道の延長上にある、上写真中央に延びる細い道を目指します。つまり、旧中山道は、幅広な現中山道(国道17号)に斜めに分断されている格好に。
この大きな交差点(『板橋3丁目』交差点)を渡ると、板橋宿の入口となります。

(次回、『板橋宿~蕨宿』編につづく)

■中山道:神田明神~板橋宿ルートのおさらい
(再生ボタンを押すと、ルートを辿ります。)

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2008/02/01

中山道中膝栗毛@日本橋~神田明神

080126hitono_iinari まずは、旅の道案内とした書籍のご紹介。

『誰でも歩ける中山道六十九次 上巻(日本橋~和田宿編)』:日殿言成・著(文芸社・刊)

人工透析患者として闘病の日々を送りながら、一日一歩の思いで歩き書き綴った旅日記。著者の日殿言成(ひとの・いいなり)氏は、残念ながら平成17年に他界されましたが、氏の「生きた証」として著者の実姉の方が編纂された本です。旅日記と銘打ちながらも、多くの文献を参考に現地情報と照合した平易なガイドブック&ロードマップとして活用できています。ただし、B5版280頁と、ポケットに入れるにはやや難がありますが(笑)

あとは、以前テレ玉で放送されていた、『中山道 風の旅』を脳内再生しながら気分を盛り上げて・・・
 #お、現在再放送中!

--------------

では。はじめます。

中山道の出発点は、なんといっても「ここから」。

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【0:日本橋(にほんばし) 東京都中央区 2008年1月26日 AM10:00】
■天気(東京):曇りのち晴れ 最高気温:8.2℃ 平均風速:4.2m/s 

080126nihonbashi1 ♪お江戸 日本橋 10時発ち~

 ・・・・・・あれ?(大汗;

橋の彼方は東海道、此方は中山道。面白いのは、ここでは正反対の方角でも、終点は同じ京の都は三条大橋というところ(滋賀県草津~三条大橋は東海道との共用区間ということで、日本橋080126nihonbashi4~草津間を中山道と呼ぶ場合もありますが)。ここから三条大橋まで、 たった41㎞の違い(中山道が長い)。山の中を分け入って行くイメージが先行してか、あるいは六十九次という宿駅数からか、もっと長いような印象が中山道にはあります。

まずは初回・試運転ということで、付近にお住まい・お勤めの方向けに、昼休みあるいは帰り道のお散歩ナビ程度に、沿線のご紹介をさせていただきます。

080126nihonbashi6最初に、日本橋が架かる日本橋川のご紹介。上空には、ご存じ首都高が。この景観破壊の代表例は、現在さまざまな改善案が検討されています。その抜本的改善策例として引き合いに出されるのが、韓国・清渓川の河川整備。韓国より複雑化した高速道路整備網と地下空間利用がなされている東京のど真ん中で、同様の事業が展開できるかどうか・・・今後の検討に期待いたしましょう。

【AM10:07 日本橋 発】

080126nihonbashi5 さあ、これから北に向かって、『中山道』を意気揚々と歩みます。
このあたりは日本橋室町。銀座~神田~秋葉原をつなぐ“日本の顔”と言える『中央通り』です。実は3年ほど前まで、ダンナと私が勤める会社の本社が隣の日本橋本町にあったので(現在は移転)、この界隈は馴染み深いとともに実に愛着があります。
左手には三越日本橋本店と新館、右手には山本海苔店、刃物の木屋、その筋奥には鰹節のにんべん、「カステラ1番 電話は2番」の文明堂などなど老舗の有名どころがずらり。近年、三井タワーが新たな室町の顔として加わり、江戸~平成の時代が同居する、絶妙な街並みが形成されています。

080126nihonbashi7 その三井タワーの斜向かい、ちょっと神田寄りに進んだところにある、この怪しさ満点の建物。昔から店の看板があるのかないのか店名は不明ですが、、、その正体は、“インドカリー屋”。メニューはインドカリー1品のみ。席に黙って座るだけでカレーが出て来ます。数年前行ったのが最後だったのですが、その時で一皿1200円だった記憶が。材料の味が融合することなく、個々に主張しながらも『カレー』として成立している珍しい味(笑)。味もワイルドなら、具もゴロリとして一口では食べきれない野性味あふれるサイズなのが特徴。正直、味の評価は、食べた方の判断にお任せしいたします(^^;。しばらく訪ねていませんが、まだ営業しているのでしょうか・・・。

【AM10:20ごろ 神田駅通過】

080126nihonbashi8今川橋交差点を過ぎ、神田駅ガード下通過。このあたりを歩くと、いつも志賀直哉の『小僧の神様』を思い出します。誰かが寿司を奢ってくれそうな・・・。庶民的な“リーマンの楽園”として新橋駅と共に親しまれています。ここで何度酔いつぶれたことか(爆)。このごろは、だいぶ小洒落た飲み屋も増えてきたようです。

080126nihonbashi9 神田駅から数分歩くと、『須田町』交差点でY字に道が分かれます。ここで右手・国道17号(中央通り)沿いに万世橋を渡ると、秋葉原電気街へと向かいますが、中山道はこの写真左手方向に、道なりに進みます。昌平橋を渡るまでの少しの区間だけ、国道17号から離れます。

※須田町交差点~神田郵便局交差点付近。マウススクロールで拡大縮小します。

 

080126sudacho2

 

 

 

 

大宮の鉄道博物館の前身・旧交通博物館脇を通り、JR中央線沿いに進みます。有名な煉瓦貼りの高架壁が、東京の鉄道の歴史を偲ばせてくれます。『神田郵便局』交差点まで進み、右折。ガードをくぐり昌平橋を渡ります。

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写真左:昌平橋
写真中:橋の上でダンナが指さした先を見たら、、、お茶の水分水路の下流端口が。
     以前仕事で関わったことがあったので、少々萌えました(笑)
写真右:昌平橋から聖橋を臨む。下の鉄橋は丸ノ内線(たぶん)。

080126shoheibashi2 秋葉原寄りの昌平橋周辺は、かつて神田旅籠町と呼ばれてていたとのこと。中山道と日光御成街道の街道筋という立地から、江戸初期には多くの旅籠が軒を連ね賑わっていたとか。しかし、かの『八百屋お七の大火』により焼失したため、その後替地・代地を与えられるなどして旅籠は減少。幕末の嘉永の頃には旅籠は1軒のみとなりましたが、そのかわり米・塩・酒などを扱う問屋が増え、商人街へと変貌し、現在に至っています。

080126nihonbashi16

歩きながら気付いたのですが、東京都内の中山道にはこのような解説板や道案内が多く整備されています(残念ながら、埼玉は少ないです)。こういうものを通じて、自治体や地域住民の歴史への造詣の深さや地域愛がよく伝わってきます。

昌平橋を渡ると、万世橋から曲がってきた国道17号に合流。100mほど進んで『神田明神下』交差点を左折。

 

080126yushima0はい、まだ「こんだけ~?」(大汗;

ちょっとキョロキョロしすぎなので、先を急ぎます。

と・・・

坂道の行く手に、湯島聖堂の白い練壁が見えてきました。
中央線、聖橋、湯島聖堂、、、とくればこの唄ですが、先を急ぎます(笑) 
080126yusahimaseido 湯島聖堂と言えば、時代劇でもよく登場する江戸の学問所として名高い昌平坂学問所(昌平黌)があった場所。諸国の英才たちが集う当時の最高学府でした。ここで学問を修めた若者たちは、帰国後は、それぞれ国元の発展に尽くしたことでしょう。
などと、江戸の頃に思いを馳せながら、坂道の右手に目を遣ると・・・神田明神が。
おっと!これは、ご挨拶していかねば(笑)

【AM10:45ごろ 神田明神 訪】

080126kanda_myojin2

 

 

 

 

 

 

神田明神は、言わずと知れた江戸の総鎮守。隔年で行われる『神田祭』は、山王祭、深川八幡祭と並んで江戸三大祭のひとつに数えられる、江戸っ子の代名詞的祭りとしてあまりにも有名。また天神祭、祇園祭と並び日本三大祭にも称されています。
かたや神田明神は、平将門の霊が祀られていること、江戸城の鬼門除けとされていることは意外と知られていません。江戸幕府以前に大手町の将門塚(首塚)周辺にあった神社を、徳川家康が江戸城拡張に伴い、表鬼門に当たるこの地に社殿のみ遷座させたそうなのですが、首塚はそのまま大手町に。家康を持ってしても動かせなかった将門塚の話は・・・ここでは遠慮させていただきます。
なお、神田明神と言えば『銭形平次』『半七捕物帖』と思い浮かんだ読者の方は、立派な“華麗”です(笑)。

080126kanda_myojin4 境内には、大きな“茅の輪”ありました。正面から左に入り、いわゆる「8の字(=∞)」に左右3周くぐりながら願い事をかけました。

 「家内安全 夫婦円満 ACL2連覇 Jリーグ優勝 天皇杯優勝 ナビ杯優勝・・・」

相当ゆっくり回らねば、「カミカミ」で全部唱えられませんでしたが何か?(爆)

080126kanda_myojin3 

 

 

 

随分と陽に焼けた畳とお獅子様(笑)
おみくじを運んでくださるとのことで、大枚200円を投入。お約束の舞のあと、お座敷に開いた穴(これがちょっと情けない穴の開き方で・・・)に、おみくじ投入。引いたみくじの内容は、ダンナと全く同じ文面(´∀`)。ありがたく揃って『大吉』でしたので、それ以上のツッコミは、こちとら江戸っ子ではないのですが野暮と言うことで(笑)。
また、平将門と言えば勝負事の神様。『勝守』も買い求めました。

080126kanda_myojin5境内を出て、短い参道を歩いていると、
「神田と言えば、“揚げまんじゅう”じゃ!」
と、のたまうダンナに連れられて入った、揚げまんじゅうの店『神田揚げ・巴屋』。道中の腹の足しにと、『こしあん』と『いもあん』を購入。各105円也と安価。
ところで、「まんじゅうこわい」な甘いもの嫌いのワタシ ((((;゚Д゚)))
結局、道中で食べる機会を得られず、帰宅後にダンナに勧められて恐る恐る口に入れてみたところ、、、

 「う ま か 。」

ワタシがそう思うくらいですので、お近くにお立ち寄りの方は、ぜひ。

あ・・・・・・・・・・・。

いつまで遊んでいるのでしょう、もう11時ジャマイカ!!!ヽ(`Д´)ノウワァァァァァァン

時計を見て慌てて中山道に戻った二人は、再び北上を続けます。

(次回、『神田明神~板橋宿』編につづく)

■中山道:日本橋~神田明神ルートのおさらい
(再生ボタンを押すと、ルートを辿ります。短っ!)

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