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2007/09/12

【AWAY紀行】まほろばを訪ねて(2)東大寺大仏殿編

ちょっと間が空きましたが、

 「大和は国のまほろば」

平城の都・奈良のトボトボ歩き紀行の第2話です。

前回の“興福寺編”につづき、今回は、この国の歴史を語るうえで欠かすことのできない、『東大寺』を駆け足で訪ねる旅です。
「東大寺なら修学旅行で行ったことあるよ」と申される方が多かろうかと思いますが、私が通っていた高校には修学旅行というものが無かったので(昔、不祥事があったらしい)、この歳で、このたびが初めての東大寺参詣となりました。

(前回のお話は、こちら

070816toudaiji1 飛火野の入口を左折し、真っ直ぐに北上すること数分、門前の仲見世に辿り着きます。その視線の先には、東大寺南大門が。
すると。
奈良公園名物の“鹿”の存在が、私たちを苦しめはじめました。
わが庭とばかりに悠々と歩く鹿を「見るだけ」でしたら別に問題はないのですが、いわゆる「フンの臭い」が、たぎった空気と混じり合って、猛烈に襲いかかってきたのです。写真でお伝えできないのは、皆さまにとっての幸い(笑)・・・真夏の真昼の奈良公園には、そんな思いがけない試練が待っていたのでした(^^;
フンの臭いを払いのけるように、先へと進みます。(@◇@;)ゼーゼー

【 2007年8月16日 11:20ごろ 東大寺南大門】

070816toudaiji2当然のことながら、『古都奈良の文化財』として、興福寺などと共に世界遺産に登録されています。東大寺は、聖武天皇の発願により創建さた金鐘山寺(きんしょうせんじ)を起源としています(728年)。『国分寺・国分尼寺建立の詔』(741年)の翌年に金鐘山寺は大和国国分寺となり、その後『盧舎那大仏造顕の詔』(743年)を発令し、当時の都・紫香楽宮~難波宮から再遷都した聖武天皇は、この地で本格的な大仏造立を開始(747年)しました。その頃から、総国分寺“東大寺”の名が使われるようにな070816toudaiji3ったそうです。開山は華厳宗の良弁(ろうべん)僧正。 日本史の教科書には必ず載っている、現代では到底成し得ない壮大な国家プロジェクトの舞台となったことで知られている、あまりにも有名な寺院です。
詳細については、私がどうこう説明するより、下記サイトをご参照くださればと思います。
 ・東大寺HP
 ・東大寺(Wikipedia)

070816nandaimon 東大寺南大門。
創建当時のものは災害損失し、現存する門は鎌倉時代(1199年)に復興されたもの。中国・宋から伝えた建築様式といわれる大仏様(だいぶつよう、天竺様・てんじくよう、ともいう)を採用した建築として著名な建造物です。長年の風雪に耐え、かなりの傷み具合でしたが、かえって悠久の時の長さ、歴史の重みを語りかけられる思いがしました。『大華厳寺』の銘板が掲げられています。

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南大門と言えば、金剛力士像。世界最大の木造彫像として国宝指定されています。
人間というものは、“本物”を目の当たりにすると、頭の中が空っぽになってしまうのでしょうか・・・気が付いたら、口をポカンと開けて圧倒されて突っ立っている自分がそこにいました。
鎌倉時代の高名な仏師である、運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が制作に当たりましたが、平成の解体修理の際、像内に納められていた文書から、彼らが小仏師多数を率いてわずか70日程度で造立したものであることが裏付けられ、運慶が制作の総指揮にあたったものと考えられているそうです(以上、Wikipedia等を参考にしましたが、この話は以前TVで見た記憶があります)。
なお、右に吽形、左に阿形を配していますが、これは一般的な安置方法とは逆なのだそうです。
檜の寄木造り、高さ約840cm(左写真の下に写っている人物と比べればわかりやすいです)、重さ約6tの巨像・・・800年以上も前の技術の高さと確かさ、圧巻です。

【 2007年8月16日 11:30ごろ 東大寺金堂(大仏殿)】

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070816daibutuden5 私も、割といろいろな寺社巡りをしているほうですが、見た瞬間、あまりの迫力に呆然と脱力してしまいました。広大なる敷地に堂々とそびえる“天平の甍”。 
何と言いますか・・・宗教的な迫力と言うよりは、千年以上も昔の国家権力の強大さをまざまざと感じさせられました。政教一致の国家プロジェクトとして、前述の『国分寺・国分尼寺建立の詔』(741年)と『盧舎那大仏造顕の詔』(743年)を発令し、あまたの国費と人材が投入された大仏殿の姿は、当時頻発した社070816daibutuden2会不安を払うための国家安寧と国体維持の象徴として、現代にもその威厳を放っているように見えました。しかし大仏造立後の国政は、聖武天皇の願いとはかけ離れて財政逼迫し、民衆は疲弊してしまうという現実に見舞われてしまいます。。。

東大寺盧舎那仏・・・いわゆる『奈良の大仏さま』は、大仏殿と共に2度の戦火にあっており、それに加えて補修も多く行われていることから、台座、腹、指の一部などごく一部に当時の原型を留めているそうです。江戸時代に再建された大仏さまと大仏殿が現存のもので、大仏殿は創建当時の3分の2程度に縮小復元されたということですから、創建当時の規模に思いを馳せれば、いかに国家の命運をかけた壮大な国家事業であったかが伺えます。

070816daibutuden3 

余計なこととは思いつつ(笑)、大仏さまの後ろ姿をおさめさせていただきました。
随分と「絶壁」です、って罰当たりが・・・金色の光背(後光)に補強材が施されていました。

 

070816daibutuden4

大仏殿の四方には、四天王立像が配されていたそうなのですが、広目天像、多聞天像については、頭部だけが残されていました。
拝観したときが真っ昼間だったので面と向かって拝めましたが、真夜中にお会いするのは・・・ちと勘弁して欲しいものです(汗;

 

070816omamori

大仏殿にて、お守りを購入。
左はヘマタイト製念珠。磁気入り(笑)。虎目石も配されています。ヘマタイトは「勇気と自信、闘いの守り石」と覚えがあったので、即購入(“磁気入り”も動機ですが)。
右は“勝守”。条件反射的に手が出たのですが、赤い袋が無かったのが至極残念!(笑)。
購入後、このお守りで3連勝しましたが(以下省略)。

ゆっくりと足を止めて拝観したいところではありましたが、時間は容赦なく過ぎていきます。

名残惜しくも早々に切り上げ、『修二会』で知られる二月堂へと歩を進めます。

(つづく)

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コメント

うふっ、楽しみ楽しみ!!

鹿さんは臭いだけでなくならず者ではありませんでしたか? やはり鹿さんらしく…。観光客のえさを狙って…、おねだりではなく強奪しにくるんですよね。午後になるともうおなかいっぱいで、目の前にえさをぶら下げても見向きもしないんですよね。

東大寺、いいですよね。
奈良に行くたび、時間があれば大仏さまを拝んでまいります。法隆寺はちと離れていますので毎回というわけには行かないのですが…。

投稿: なごやのじーじ | 2007/09/12 20:43

鹿、観光客の紙幣まで狙ってくるのがいるらしいですね。
・・・奈良ではなく、安芸の宮島だったかな・・・

投稿: sat | 2007/09/13 03:16

@なごやのじーじさま

>>鹿さんは臭いだけでなくならず者ではありませんでしたか?
私が行った時は、ちょうどお昼前でしたので、『鹿せんべい』持った観光客になかば「襲いかかる」ように接近していました。
怖がって、蜂の巣を突いたように「びぇ~!」と泣き出す子供もいましたね。
図々しく人間にからんでくるのは、『鹿』の習性なんでしょうか・・・(^^;

>>奈良に行くたび、時間があれば大仏さまを拝んでまいります。
私の印象ですが、奈良の大仏さまは、一般の仏さまとは何か違うものを感じました。
うまい表現が見つからないのですが、、、国を守る、つまり「鎮護国家」を願われているような、お体の大きさ同様、スケールの大きさを感じました。東大寺の歴史的位置づけが、そう思わせているのでしょう。
東大寺を抜きにして日本の歴史は語れないのだなあ、改めて感じた次第でした。

@satさま

>>鹿、観光客の紙幣まで狙ってくるのがいるらしいですね。
ひえ~(@∀@;)、すごいですね。
数年前の広島戦の帰りに宮島に行きました。確かに『鹿』は島内をたむろっていましたが、私らを襲ってくるようなことはありませんでした。
あ、、、そうか!“金”の匂いがしなかったのか!>私(笑)

投稿: nigoe | 2007/09/13 12:39

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