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2007/06/29

松山城(埼玉)

明日の試合に因めば「掛川城総攻撃」(゜∀゜)と書きたいところですが・・・今回は、埼玉の代表的な城をご紹介。

『歴史ロマン・埼玉の城址30選』(西野博道編著・埼玉新聞社刊)をひもとくと、「埼玉を代表する城」として、

 忍城 河越(川越)城 岩槻城 松山城 鉢形城 蕨城

の6城が記されています。このたびの松山城で、蕨城以外の5城を訪ねたことになりますが・・・
「他の4城の紹介は?」という話ですが、聞かないでください(笑)。というのも、昨年のHDD破損で写真が全部「パァ」となりまして(号泣)、何年先になるかわかりませんが、いずれまた「やり直し」をば(つ;д`)
 #実は、掛川城も2回行ってたくさん写真があったんですけど・・・合掌。

で、ここを訪れたのは、議論百出した“彼の地”を訪ねた時でして・・・というか、実は“こちら”が当地を訪れた主目的だったのはナイショです(笑)

 

【松山城(まつやまじょう) 埼玉県比企郡吉見町:東武東上線 東松山駅より1.5㎞】<県指定史跡> 2007年5月5日 訪

070505matsuyama2 松山城は豊富に現存する文献等から、戦国時代を通して存在していたことが知られています。「松山城」と呼ばれる城は日本各地に存在(代表格は愛媛松山城)することから、『武州松山城』『武蔵松山城』と呼ばれることも。
地理的環境としては比企丘陵の先端にあり、吉見百穴とは道ひとつ隔てた「隣の小山」に築かれています。周囲を流れる市野川が西側と北側に断崖絶壁を形成し、天然の要害を成しています。

■城の歴史

070505matsuyama1 室町時代の応永6年(1399年)に上田友直によって本格的に築城されたと伝えられています。歴史的には、戦国の雄・北条早雲を祖とする後北条氏の台頭により歴史の表舞台に登場することに。かつての居城(河越城)を追われた扇谷上杉朝定が8年間ここ松山城を居城とし、後年奪還を図った経緯は、NHK大河ドラマ『風林火山』で先日放送された第23話『河越夜戦』でも描かれており、河越城とも大変縁のある城です。
河越夜戦で勝利をおさめた北条氏康の支配下となったのちの松山城は、後北条氏の勢力下で上田氏が長く治めましたが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の関東攻略の際、前田利家と上杉景勝の連合軍により落城。徳川家康の関東入国後は松平氏が城主となりましたが、その後浜松に移封され、江戸幕府開闢直前の慶長6年(1601年)、廃城となり、その歴史を閉じました。

■河越夜戦と松山城

天文6年(1537年)に河越城が北条氏綱によって攻め落とされ、その後、松山城は河越城を失った扇谷上杉朝定の居城となりました。
北条氏綱が没すると、古河公方、関東管領(山内上杉家)、扇谷上杉家の三氏は同盟を結び反攻を開始、一部を除いて関東の武士すべてに号令をかけ、北条綱成が守備する河越城を7万人の大軍で包囲しました。小田原の北条氏康は綱成を救援するため約8千人の兵を率いて河越城に向かうも、戦況は数ヵ月間膠着状態。氏康軍の福島勝広(北条綱成の弟)が単騎で上杉連合軍の重囲を抜けて河越城に入城、兄の綱成に奇襲の計画を伝え、様々な知略が功を奏し、天文14年4月(1545年5月)『河越夜戦』は成功。この闘いで上杉朝定は闘死し扇谷上杉氏は滅亡し、松山城は北条氏康の手に渡りました。
この合戦は、約10倍の兵力差を覆しての勝利として、日本の戦史上高く評価されており、『桶狭間の戦い』『厳島の戦い』と並び、“日本三大夜戦”と称されています。

■城の歴史Nawabari2

参考までに、『城郭資料集成 中世北武蔵の城』(梅沢太久夫著・岩田書院刊)掲載の、松山城の縄張り図を転載します。
(※写真クリックで拡大します)

現在の入口から腰郭と笹郭の間付近の歩道を登り、まずは本丸へ。本丸に登ってまず驚かされるのは、高低差の大きい、大規模な空堀が状態良く保存されていることでした。山頂の本丸から東方向の尾根に沿って二の丸、春日丸、三の丸が配置され、その周囲を帯曲輪や腰曲輪が囲む構造になっています。これらの曲輪の間に空堀が良好に保存されており、城郭主要部の面積の50%を上回る部分を空堀が占めるという特徴的な縄張りとなっています。まさに中世の“砦”的な体を成した城であり、エコパ近くの高天神城を彷彿とさせてくれます。
以下、城内の様子をご紹介。070505matsuyama3

入口から腰郭と笹郭の間付近の歩道。ここを登り、本丸へ向かいます。

 

 070505matsuyama4

本丸跡。この後方に二の丸、春日丸、三の丸が続きます。
横の空堀を伝って二の丸へ移動します。

 

 

070505matsuyama61070505matsuyama62 空堀は大規模で深く、起伏に富んでいました。樹木や草木の着生が、数百年の時の流れを物語っています。これだけ地形が原状のまま残っている状態を目の当たりにすると、感動を覚えます。  

070505matsuyama7 

二の丸跡。
戦で命を落とした兵たちの魂を弔うかのように、ひっそりと祠が建っていました。 
城内で、建物があるのはこれだけです(当時のものとは違うと思いますが)。

 

070505matsuyama9

 

本丸下の兵糧倉跡。
今では緑陰濃く、森のようになっています。 

 

070505matsuyama10

 

城下の岩室観音堂に続く、沢状の堀。
その険しさに誘われ(笑)、降りてみることに。
予想通り、「転ばぬように・・・」と沢のようにぬかるんだ足下に神経を尖らせながら、やっとの思いで無事下山。
当時の兵士の苦労の一端と、この城の堅牢さを体感することができました。 

 

 

前述の高天神城や鉢形城(寄居町)を訪れたときの迫力と感動に近いものを感じました。
関八州の中世の戦いの歴史の名残がひっそりと、しかし力強く刻まれていました。
人々の評価に違わぬ、難攻不落の埼玉の名城でした。
近くの『吉見百穴』と共に、訪れてみてはいかがでしょう。

 

【参考文献】
吉見百穴資料展示館 配布資料
Wikipedia:『松山城(武蔵国)』『河越城の戦い』『上杉朝定(扇谷上杉)』の各項
『歴史ロマン・埼玉の城址30選』(西野博道編著・埼玉新聞社刊)
『城郭資料集成 中世北武蔵の城』(梅沢太久夫著・岩田書院刊)

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コメント

埼玉の城周りの文献としては、小説ですが南総里見八犬伝でいろいろ出てくるんですよね。
忍城なんかもありました。鉢形城もあったような。。。
一度ゆっくりまわって見てみたいとは思うのですが、先立つものも時間も無く。。
今回の写真で雰囲気を堪能させていただきました。
数年後の補完を待ってます(笑

投稿: 赤い区民 | 2007/06/30 00:08

@赤い区民さま
いらっしゃいませ(^o^)/ ようこそいらっしゃいました。

>>埼玉の城周りの文献としては、小説ですが南総里見八犬伝で
>>いろいろ出てくるんですよね。

そうなんですか!勉強になります。
前エントリのように、大の読書嫌いなもので(爆)、TVですが私はかの人形劇『新・八犬伝』を夢中になって見ていた世代です。確かに「関東管領、扇谷サダマサ~」(笑)なんてやってましたから、時代も同じで関東ですし、武州の各地が話の舞台になるでしょうね。

>>一度ゆっくりまわって見てみたいとは思うのですが、先立つものも時間も無く。。

赤い区民さんのお住まいはどちらか存じませんが、関東ですと、割と身近に城址があります。岩槻城や鉢形城など天守等の施設がない城(遺構のみや公園化された城)ならば、先立つものが無くとも時間さえあれば、電車代(orガソリン代)で楽しめます。私の場合、城巡りは「金のないときの手近なレジャー」と化しています(笑)。

投稿: nigoe | 2007/07/02 14:23

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