トップページ | 2004年6月 »

2004年4月の2件の投稿

2004/04/05

高天神城(静岡)

【高天神城(たかてんじんじょう) 静岡県小笠郡大東町:掛川駅より車で20分】 2004年4月5日 訪 

前日の天竜二俣城につづき、高天神城を訪ねてみた。

この城は、「凄まじい」の一言である。

今でこそ、田んぼや畑に囲まれたのどかな田園風景の中にある“小山”といった風情なのだが、山の中に一歩踏み込んだ時から、そこは“要塞”としての戦闘的な機能を見せていた。

この城には、一般的なイメージとしてある『城』の天守閣の優美さや荘厳さは持ち合わせていない。まさに実践的戦闘が行われた『山の要塞』としての跡が随所に残されている。小さな山ながら複雑に尾根と谷が入り組んでおり、その地形を巧みに取り入れた険しい登城路や搦手の尾根道、多数の曲輪や築かれている。
城と言うよりは『砦』のイメージが強く、鬨の声や兵達の怒号が聞こえてきそうな佇まいだ。さながら映画『ロード・オブ・ザ・リング』で出てくる要塞の日本戦国版といった感がある。今日の静穏さがかえって往時の凄まじさへの想像をかきたててくれる。圧倒されてしまった。

「高天神を制する者、遠江を制す」と言われたという。
武田と徳川の攻防の最前線となった城として、今川衰退後、徳川家康の支配下にあったが武田勝頼に落とされると、武田氏の遠江最大の拠点とされ、その折に本格的に整備されたそうだ。峻険さだけでなく緩やかさをも備えた地形の小山であるにもかかわらず、山の周囲の広さがかえって敵の包囲を困難にさせていたようである。その恵まれた立地と地形をさらに活かすように、山の中(城内)の構造は複雑そして堅牢に縄張りされていた。その軍事築城技術には感服である。

takatenjin 長篠合戦以降、徳川の攻撃にさらされた高天神城は、勝頼が後詰めの戦力を送ることができず兵糧が尽き陥落。家康はこれにて遠江を手中に収めたという。

戦いに夢破れた兵の霊を慰めるかのように、さわやかに晴れた山頂の曲輪跡に桜が静かに散っていた。

参考:学研『図説・日本名城集』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004/04/04

天竜二俣城(静岡)

【天竜二俣城(てんりゅうふたまたじょう) 静岡県天竜市:二俣本町駅より徒歩10分】 2004年4月4日 訪 

futamata2 ジュビロ戦の翌日、あいにくの雨日和。咲いた桜を散らすかのような雨空をうらめしそうに眺めながら、天竜浜名湖線にトコトコ揺られて、やって来ました天竜市。

天竜二俣城は、天竜川と二俣川の合流地点にあり、まさに要衝の地に築かれた城である。その所以か戦国時代に激しい争奪が繰り返された城として、また徳川家康の嫡男・信康の自刃の地としても知られている。

まず、立地の険しさから天然の要害の地であることにうなずかされた。眼下には天下の暴れ川として名を響かせる天竜川が流れている。こんなところから攻めるのはまず無理だ。しかしそんな難所を苦労を買ってまで(いや命を賭けてまで)攻めに来るのだから、戦国武将とは難儀な職業である(笑)。そして城内を見渡すと、いまでは天守台とわずかな遺構を残すのみとなった公園として整備されていた。futamata1

往時を偲ぶとき、ここが信濃・三河・駿河を制する重要拠点であり、斯波・今川・武田・徳川などの有力武将が覇権争いを繰りひろげた地となったことは想像に難くない。さらに武田勝頼は当時城主の徳川方を攻略するのに1ヶ月を要し、その後徳川家康が奪還の際も半年を要したほど難攻不落の要害であったこともよく理解できる。

園内の桜はまだ五分咲き・・・かつての激しい戦いの記憶に涙するかのように雨に濡れていた。

参考:学研『図説・日本名城集』

| | コメント (0) | トラックバック (0)

トップページ | 2004年6月 »